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「人・ヒト・ひと論」から読み解くHITOの脱未来

 WIREDの最新号で「Regenerative City 未来の都市は、何を再生するのか」特集を読み、興奮が冷めない中、一旦冷静になり、本特集から私が感じたことを綴りたい。特に、本特集は、「東京の100年の大規模開発」が進む中、再開発を否定するのではなく、より良い開発とするために必要なことが何かが大きな問いとしてあった。

HITOを因数分解する「HITO=人・ヒト・ひと」

 都市やまちにおいて最重要な要素の1つが「人」である。人は、当然ながらさまざまな形で都市やまちに介入している。例えば、再開発を計画し、ビルを建設するのも、そこで働き暮らすのも「人」である。しかし、これまで 人は、「人対その他(人、経済、都市、生物、文化など)」として捉えられてきた。数ある議論もこの構図の一部を切り取り、それを深化させてきたものが多い。しかし、私はこれまで「人」としか表されなかった人間は、その内に「人・ヒト・ひと」の3つ性質を持ち合わせ、この3つのバランスを取ることで都市計画や都市デザインをはじめとし、さまざまな意思決定をおこなってきたのではないかと考える。
 その論の詳細は、以下である。

「人・ヒト・ひと論」
「人(漢字HITO)」・・・経済合理性を求め続ける性質。貨幣資本主義に則り、効率性を求める。
「ヒト(カタカナHITO)」・・・他の生物種と対等な生物種の1つ「ホモ・サピエンス」としての性質。自然回帰や自然との調和を求める。
「ひと(ひらがなHITO)」・・・伝統や文化、潮流を加味して「人」「ヒト」のバランスを求める比較的中立的な性質。しかし、伝統や文化、潮流に重きを置きすぎ、残りの2つの性質と同様に過激化する可能性を孕んでいる。

 ここで、WIREDの日本版編集長の松島さんの本特集のEditer's Letter「未来は都市にある。ただしちがうかたちで」を引用して、この3つのHITOを説明したい。

都市開発の指標が床面積あたりの経済合理性で回り続ける時代に、実は生物多様性に富んだ都市の自然やそこに棲む生物、あるいは50年後の主役となる未来世代の声を代弁する”グッドアンセスター”に僕らはなれるだろうか。街の文化や愛すべき日常の風景、そこで育まれた人間関係や継承されるコミュニティといった、ゆっくりと時間をかけて都市に追跡していく多元的な資本を可視化してちゃんと評価し、増殖させる仕組みはどうすればつくれるだろうか。

松島倫明, "WIRED Vol.54 EDITOR'S LETTER 「未来は都市にある。ただし違う
かたちで」"より引用

 ここでいう「都市開発の指標が床面積あたりの経済合理性で回り続ける」これが「人(漢字HITO)」にあたる。これまでの再開発はこの性質を持つことが求められ、保留床や権利床をいかに捌くか、公開空地制度を用いてどれくらい建て増しをできるか、導入する機能によりいかに金銭的利益が獲得できるかを最優先の意思決定がこれにあたる。

 一方、「実は生物多様性に富んだ都市の自然やそこに棲む生物」について考慮するのが「ヒト(カタカナHITO)」の性質である。近年の都市政策における生物多様性に配慮した「More than Human」や「Re-wilding」、よりプロダクトやサービスの議論で上がる「Nature positive」、自給自足型農業などはこの性質を持ち合わせた考えである。

 そして、この2つの議論は、過激化する可能性を大いに持ち合わせる。例えば、「人(漢字HITO)」であれば、以前noteで触れた映画「バティモン5」で題材とされた貧困な移民集住団地を一掃し賃貸型の住宅を開発した政策は、その一つだと言える。一方、「ヒト(カタカナHITO)」の過激化でいうと、「極端な衰退主義や懐古主義」がそれにあたる。先々週の松島さんのNewsletterでも、サステイナビリティの言説における江戸時代の捉え方を持ち出し、極端な衰退主義や懐古主義への向き合い方が議論になっていた。

 自然環境に大きなインパクトを与えることなく、自然と調和しながらも豊かな都市文化を築いた江戸時代、といった言説はサステナブルの文脈でも度々なされてきた。今後、リジェネラティブの文脈でも同じことが起こりそうなのであらかじめ確認しておきたいのだけれど、江戸時代というのは身分制があって人権意識に乏しく(女性に対しては特に)、エネルギー源や建材が限定的なために森林の過度な伐採による環境破壊が全国で進行し、度重なる大飢饉で大量の餓死者を出し、医療も衛生環境も劣悪なために疫病が発生すると数十万人が亡くなる世界だった。乳幼児死亡率がとても高く、平均寿命にすると30〜40歳だ。そうした世界で実現される地産地消や下肥の循環は、少なくともキレイゴトではまったくないし、その時代より現代のほうが「衰退」しているとはさすがに言えないはずだ。

松島倫明, ”SZ Newsletter VOL.254「江戸時代の脱未来」”より引用

 このように「人」と「ヒト」の性質は、それぞれ過激化しやすい側面がある。しかし、都市計画や都市デザインをはじめとしたありとあらゆる政策や意思決定には、この2つの視点が必要不可欠なのも間違いない。そして、この2つの性質のバランスを伝統や文化、社会の潮流を用いて均衡を保つことができるのが「ひと(ひらがなひと)」という性質なのではないだろうか。先の松島さんのEditor's Letterでいう「街の文化や愛すべき日常の風景、そこで育まれた人間関係や継承されるコミュニティといった、ゆっくりと時間をかけて都市に追跡していく多元的な資本を可視化してちゃんと評価し、増殖させる仕組み」がそれにあたると考える。

3つのHITO性を互いに否定せず、明示し、そこに責任を持つ

 そして、この3つの性質を読み解いた上で、これからの都市計画や都市デザインに必要なのは、「人・ヒト・ひとの性質を互いに否定せず、それぞれをしっかりと内包し、明示する。そして、その明示したものに責任を持つこと」ではないだろうか。私自身も必ずしも全ての行動様式をサステイナブルやリジェネラティブに則って行えてはいない。ペットボトルの飲み物は購入するし、ファストファッションやファストフード店で売られる商品を毎日身につけている。ガソリン車でドライブもするし、虫や爬虫類も怖く触ることができない。しかし、ものを買ったり、どこかに行ったり、何かを使ったり、何かを捨てたりする場合に、3つのHITOの性質を一蹴でも加味するために、己の中で3つのHITOを議論させる。そして、矛盾を孕みながらも、説明できるまでに熟考するようにしている。

 これまで、自身の頭の中で何かを熟考する際、アニメやドラマで善の己と悪の己を「天使と悪魔」で描写している光景を見たことがある人は多いだろう。しかし、これからは本記事のサムネイルにしているような「人・ヒト・ひと」の3つのHITOを頭の中で議論させるようにするべきではないだろうか。そして、この3つの性質があらゆる行動・政策・取り組みにも「ある」と認識するところから始めていくべきではないだろうか。

P.S. 
最近、菊竹清訓の『代謝建築論 か・かた・かたち』やハナムラチカヒロの『まなざしのデザイン』を読んだり、早稲田大学の中谷礼仁先生の「解体における「とく」・「ほどく」 建築から改築へ向けての考察」の講演会など、言葉を用いて概念を拡張させることに魅了されていた。それで、今回は「人」を用いて同じようにやってみたいと思い、論を作ってみた。まだまだ未熟で欠陥だらけの論ではあるが、個人的に就職して働き始めてもこのテーマは自分自身で考え、だれかとも議論をしたいと思う。

参考文献

▼WIRED最新号「The Regenerative City 未来の都市は、何を再生するのか」

▼今回の特集の編集後記や関連するPodcast


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