カンニング
今日は非常勤をつとめる専門学校の期末テストの日。
日本人と外国人留学生が入り混じる多国籍クラス。言葉も文化も価値感も、みんなそれぞれ。
そんなクラスだからこそあえて強調する注意事項。「カンニングはしてはいけない」。
日本では当たり前すぎてあえて言う必要もないほど浸透している共通認識。しかし多国籍クラスではあえて注意喚起します。
それはまさに日本と外国の価値観のちがい。つまり、日本ではカンニングはしてはいけないこと、学生として恥ずべきことと認識されているのに対し、外国ではそれが当たり前ではないという事実。
ある国出身の留学生から「どうしてカンニングをしてはいけないんですか。わからない人にわかる人が教えてあげて何が悪いんですか!」と詰め寄られたことがあります。個人の努力や学力を客観的に評価したいため。理屈はとてもよくわかる。
ただ、同時に留学生に突きつけられた指摘も、一方で本質を突いているような気がする。
わからないから助けて欲しい。
支援を受ける側としてヘルプサインを出すことはとても重要。こと日本人はその力が弱いという指摘がある。日本では人に助けてもらう前に自分でなんとかしようとする"自助"という考え方が実生活で強調されているからである。
だからカンニングはいけない。つまり助けてもらう前に自分でなんとかすることを求める。
この教育は支援を受けたいとヘルプサインを出すことを萎縮させることにつながらないだろうか。支援を受けることを我慢し、耐えようとする人たちを増産させてしまうのではないか。
そんなことをあれこれ考えながら、テストの「監視」をするのでした。