三島由紀夫の言葉
三島由紀夫の作品を読むたびに、やっぱ読んじゃうよな、天才だよな、と思ってしまう。具体性のない観念的な言葉でありながら、文の配置が立体的で、読ませどころがある。その中から衝撃を受けた言葉を抜粋してみた。
失うとは極まりなき支配である。
人々はただ己が身がここに在ることの幸を考えた。幾百年の歳月を隔てようとも、その幸を偲ぶ人の胸に切ないもえ立つごとき時空への憧れが生まれるような幸いである。今ここに在ることの永遠が思われたのだ。
(以上「中世」。説明は不要だろう。著者20歳の作品である。)
石段の上の夜空には火の粉が舞い散り、喚声にまじって竹のはぜる音がしたたかに耳朶を搏った。古い杉の梢を無慚に照らしだして躍動している篝火の焔が眺められた。
(「愛の渇き」)
<感想>
石段、火の粉、梢、篝火・・・ 内容空疎でなんの具体性もない一般名詞の羅列に過ぎないように思える。だけど「耳朶を搏った」という一言が実に効果的だ。耳朶という言葉が艶めかしくエロい。それは客観描写の中に身体の一部が放り込まれているからだろう。音が耳朶を搏ったのだから、今度は篝火が瞳に映ったことも自然に連想される。だから、そんな漫画的で通俗的な表現をわざわざ書く必要はない。森鴎外のマネをしてヌルい形容詞や通俗的表現をそぎ落としているだけではない。三島の文章は観光パンフの引用みたいだとけなす人もいるが、語の選択は異様に研ぎ澄まされている。それは悦子が舅と碁を打つように、言葉という碁石を的確に並べているのだ。修飾語を多用しても美文にはならない。
今になってみれば、一人ぐらい、人間を生んでもよかったと思いますね。私は人間を特に好きというわけじゃありませんけれど、この地球の自然はそんなに嫌いじゃない。わけても春、野原が徐々に青くなり、名栗川に雪解の水がきよらかに溢れ、羅漢山が鶯の声でいっぱいになり、畑の土の色も黒くつややかに見えてくるとき、私は金星や水星の子を生んで育てたのにも、この地上の恵みがあったのだと思いたくなる。こんな考えはまちがっているでしょうか?
(「美しい星」)
<感想>
これは重層的隠喩というか、様々な意味が含みとして読みとられる。この母親は自分を木星人と思っていて、金星や水星の子を生んだわけだけど、人間は生んでいないと言っているんだな。
これって、人間から距離をおいた木星人の独白とも読めるし、母親としての感情、さらには女の孤独、様々な感情が同時に読み取られる。それらが田舎の風景と美しい星である地球の自然と折り重なってるんだ。さらにこれらがすべて、木星人のフリをした母親の手の込んだユーモアであるようにも思える。「あたしゃ、おまえを生んだおぼえはないねえ」という江戸っ子風の距離感のあるユーモアが、家族の稀薄な人間関係を繋ぐ唯一の感情であるようにも読みうるんだな。確かに理屈っぽい、だけど歌がある。SFでもあれば、どこか枕草子のような古典の匂いもする。見事なものだ。
これを読むと、三島は小説家でありながら戯曲も上手かったのじゃなく、元々戯曲家だったんじゃないかと思うね。このセリフはデクラマシオンだ。観念的で現実にはありえないセリフだけど、表現が見事であればそれで一向に構わない。
ちなみに愛する者を得ることができないがゆえに、愛する者を殺す、忘却するというのは三島文学の主要テーマであるが、凡人の私は何故に?と思ってしまう。
だけど「愛の渇き」の悦子、「午後の曳航」の登、「サド侯爵夫人」のルネ、「豊饒の海」の聡子、等々の人物造型を三島由紀夫の分身と考えるならば、それはおそらく「仮面の告白」の近江のモデルとなった人物との別れに起因するのではないか、と私は思う。それは生きるためには愛する相手を殺すか忘却しなければならないほどの自死に等しい苦痛であったのだろう。
その苦痛を抑圧した結果、意識においては男女を主人公とする様々な殺人や忘却の物語になったのだ。
ゲスの勘ぐりだけど、そう考えると、結末の不自然さも一貫性があって納得できる。
特に「愛の渇き」や「午後の曳航」の結末なんか、エーッ、どうして!と思うよな、普通。思わない? あっ、そう。