芸術の秋っていうけど芸術って何?
ウチのカミさんが行きたがるもんだからコンサートや美術館へはよく行くんだけど、正直のところ感動なんてしたことはない。
さすがに昔ザルツブルグで聴いたマーラーには感動したが、あれで感動できなかったら万死だろう。それでもマゼールのドン・ジョバンニはつまらなかった。カーテンコールでブーイングが出たんで向こうの人は正直だと思ったものだ。
好きの「意味なら辞書を引かなくても分かるけど、私のものにはなってくれない」(仲谷鳰)ということで、私は芸術に対してアセクシャルというか不感症なのかもしれない。
だからといって芸術と付き合うことを避けていたら出会いはないから、付き合ってみるんだけど、不感症と自覚したうえでの付き合い方があるかもしれない。
それはまず第一に過度な期待はしないこと、第二は感覚的な気持ち良さを求めないこと、この二点である。どうせ不感症なんだから刺激を求めても虚しいからだ。
ということでとりあえず、フルトヴェングラーのトリスタンを聴いてみた。70歳にして初めてである。
音楽と言えば、音が良くなければ聴く価値はない、モノラルなんてありえねえ、オペラなら映像がないと四時間も聴いてられねえ、ということでフルトヴェングラーは敬遠していた。
それで何も期待せず金もかけずyoutubeで聴いてみたんだけど、魂を奪われましたよ、ホント、このまま死んでも悔いはないと思うぐらいのスゲーもんだ。モノラルとか映像とかはまったく関係がない。
だいたいトリスタンの第一幕なんて女性二人が怒鳴り合うだけで、それも復讐の叫びだから何の快楽もねえ、と思っていたんだけど、いやあそんなことはない。隅々までドラマチックだ。音が劇的になることがどういうことか、初めて分かった。
つまり音自体はあくまで素材であって、芸術は素材を構成する力なんだな。よく表現力と言うけど、表現するというのは素材をある一定のカタチに構成することだ。だから指揮者によって音楽はその都度まったく別物として生まれる。楽譜は記号という素材を構成する力であり、演奏は音という素材を構成する力だから、本来別の力なのだ。楽譜どおり演奏しても力の同一性が得られるわけではない。
フルトヴェングラーを聴いていると、スピノザの言う存在とは構成する力(コナトゥス)であるということが腑に落ちる。
今までは芸術に対して感動を求めていたんだけど、オレ様を感動させないと承知しねえぞとばかり貧乏臭く感動を求めても、それで得られるものは、ケバケバしい刺激の多い作物ばかりだった。
だから芸術を愛することは、見た目の良さや心地よさを求めるのではなく、構成する力としての存在を求めることであろう。感動はあくまでその結果として向こうからやってくるものだ。存在からの贈り物ということは、昔の言い方では神の恩寵ということでもある。
こういうことはスピノザやドゥルーズのプルースト論を読んで理屈では分かっていても、実際に経験することはできない。やはり芸術は必要である。