「トーニオ・クレーゲル」(トーマス・マン著 高橋義孝訳)
トーマス・マンの「トーニオ・クレーゲル」という小説は、私自身、かつて男子校で同級生に惹かれたことがあったこともあり、心の琴線に触れる作品ではあるが、ドラマとしてみると奇妙なところがある。
トーニオが二番目に「金髪のインゲ」を愛するようになったときは、既に最初に愛したハンスのことは「もうなんとも思わなくなっている」のである。そして文筆に生きがいを見いだすようになると、インゲを愛したことは「実に浅ましい、惨めなことだった」としている。かつての愛を「冷えきった祭壇」とまで断じている。
ところが小説の終わりの方で、故郷への旅の途中でハンスとインゲの二人のカップルを偶然見かけて昔を思い出し、「嫉妬の情に疲れた」とある。で、最後に女友達の手紙の中で「私の一番深い、最もひそやかな愛情は、金髪で碧眼の、明朗で生き生きとした、幸福な、愛すべき平凡な人たちに捧げられている」(以上、高橋義孝訳)と書いている。
これは奇妙だ。だって「冷えきった祭壇」だからね。それがなぜ二人を遠くから見かけただけで再び愛情が燃えあがるのか? 昔、実家が破産して故郷を離れたあと南国で「肉欲の冒険に陥」ったこともあるのだから、別に二人のことを思い続けていたわけでもあるまい。
そこで順を追って考えてみよう。
トーニオが愛したハンス・ハンゼンについてはアルミン・マルテンスという実在のモデルがいたらしいけれど、十九世紀の終わり頃、リューベックにいた無名の少年の面影が的確な筆致で描かれている。「ハンスがトーニオの目に見入った時、その美しい顔には何か後悔めいた反省の色が浮かんだ」って書いてあるんだな。さらに「家の中に入りしなにもう一度後ろを振向いてうなずいて見せた」(以上、高橋義孝訳)とある。それは本当にあったことなのかもしれない。そうした少年の面影は巨匠による一筆書きのような簡潔さで書き記さなかったら、歴史の荒波によって跡形もなく消え去ったであろう。実際、マンの講演によるとその少年は後年アルコールで身を滅ぼしたらしい。この作家は世界的名声を獲得したあとでも、生まれ故郷におけるかつての少年の消息を追っていたんだな。
マンの肉声については、昔、amazon.deによって自作朗読CDを取り寄せたことがあるが、今ではyoutubeでも聴くことができる。
(tonio kroger gelesen von autorで検索すると見つかる。von autorを付加しないと別の声優版になるので、念のため。マンの情感のこもった抑揚の素晴らしさは比類がない。3時間超なのでフィルタで20分以上と指定すると一番上に出てくる。)
その声は落ち着いていて懐かしさが感じられる。昔のドイツ人がこの声ではなくヒトラーのヒステリックな声を選んだのは残念なことだ。
高齢になった作者が少年や女性の役をこなし、様々な声音を使い分けて朗読しているのを聴くと、確かにマンは聞き手を楽しませようという芸人気質をそなえているのが分かる。フランソワ・クナークやリザヴェータのセリフなどは、あまりの巧さに笑ってしまうほどだ。そのマンが老人でありながら少年のように明るい声を発するんだな。Kommst du endlich, Hans...って。これは巨匠が自分の作品を愛しながら己の人生を思い浮かべつつ語っているに違いない。
第一章はDie Wintersonne...で始まり、第二章がDie blonde Inge...で始まる。飜訳では「金髪のインゲ、インゲボルク・ホルム」となってるんだけど、妙な始まり方だと感じていた。だけど、これはおそらく第一章の始まりのディー・・・エと韻をふんでいるんじゃないかと思う。朗読を聴いているとそのことが分かる。諦念に満ちた声が高所から降りてくるようだ。
第一章の終わりは、eine ganze keusche Seligikeit で終わるのだが、マンの肉声でこれを聞くと泣けてくる。これはワグナーの指導動機のように小説の最後でも繰り返される。
だがマンの肉声が最も痛切に感じられるのは、第三章の Aber da sein Herz tot und ohne Liebe war 「心臓は死して、愛情を持つことがなかった」である。この ohne Liebe war にはちょっとドキッとさせられる。
だからこそ最終章で再び祭壇が燃えあがり愛情を捧げるとなると、なぜ? という思いを禁じることができないんだな。
以前、私はこの箇所をマンの意地の悪い人物造型と解していた。つまり、作者は主人公から距離を置いて、トーニオを滑稽な人物として描いていると思ったわけだ。小男フリーデマンやルイースヒェンなどの短編によく出てくるタイプだ。
そう思ったのは第四章のリザヴェータへの長広舌で言及される少尉の詩のエピソードによるもので、あの素人の自称詩人の滑稽なところを、最終章でトーニオが反復していると思ったんだな。あの手紙もまた若い将校と同じようにセンチメンタルなことを書いているからね。紙きれに書いてあるという点も共通している。
愛情を持つことは生きることであり、それは「創造する者になりきるためには死んでいなければならぬ」というトーニオ自身の信条に反することだ。だから愛情を告白している最後の手紙は自分の信条に反するがゆえに作品全体を貫く格調高い文章とは似合わないセンチメンタルな素人芸であり、マンらしい芸術的達成を感じることができない。
市民的な性格の友人はこの箇所を読んで、何じゃコリャと思ったそうだが、まあ、普通はそう思うわな。巨匠なのに困った人だ。青春の自己主張、自分の本当に言いたいこと、心の叫び、そういったことが失笑に値することはマン自身が一番よく分かっていたはずだ。分かったうえで、敢えてやってみせたのは、滑稽と見せかけて本音を言うという、芸術家の巧みな仕掛けだと思ったのだ。
だが私も高齢になるともっと素直に別の解釈をしたくなった。つまり最初に描かれた愛情と最後の愛情は別のものではないかと思うのだ。図式的に言えば、最初の愛情は存在者の属性に対するもので、最後の愛情は属性ではなく存在それ自体へ捧げられたものではないかと思う。
だから属性に対する愛は属性の変化とともに消えてしまうのだが、存在に捧げられた愛は消えないのである。これは私の知る限り、根源的でありかつ完全であるがゆえに最も美しい愛である。それは芸術形式をも超越するのだ。一見破綻しているように見えて、これは最後の飛翔なのだ。
こうしてみると「創造する者になりきるためには死んでいなければならぬ」という信条も、まさしく臨死存在によって存在それ自体を捉えようとしたハイデガーと同じことを言っているようだ。