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完全雇用は存在しない

 完全雇用という概念はイデオロギー的概念であって、現実社会においては完全雇用は歴史上ただの一度も実現したことはなかった。これが私の見解である。
 なぜなら自然失業率の設定次第でいくらでも完全雇用と称することができるからだ。
 つまり完全雇用とは実際の失業率から自然失業率を控除した残りがゼロの状態だとされているが、自然失業率の解釈次第でどうにでもなる数値だ。
 だからマネタリストの中には実際の失業率が10%であっても、それは自然失業率だから完全雇用だという主張する者もいる。
 数量的把握が客観的に見えて、いかに本質を捉えていないかの好例であろう。
 そこで完全雇用を数量ではなく、質的差異として捉えてみよう。
 すると、完全雇用とは新古典派経済学が有効となる状態であると定義することができる。
 完全雇用だから新古典派経済学が有効となるのではない。逆である。
 新古典派経済学が有効となる状態を完全雇用と呼ぶことにするのである。
 それはどんな状態か?
 それは古典派の第二公準が成り立つ状態である。 

  古典派の第二公準にしたがって社会全体の労働の供給曲線を求めてみますと、横軸に示される雇用量というのは、労働者数とそれからその働く人の労働時間をかけたものであるはずです。ところが限界負効用逓増を仮定する古典派の議論は、いつもある一人の労働者が、一日の中で働く時間を増大させればどうなるか、ということを議論しているわけです。そういう議論の結論を、そのまま社会にあてはめてしまうということは、いわばつねに社会に存在する労働者全部が働いていて、そのすべての労働者が、五時間働く場合と六時間働く場合というものを、雇用量の増大と考えているわけです。(中略)雇用量の変動を(中略)労働者は全部就業しているのだけれども、各人の労働時間が、五時間になるか六時間になるかということであると考えている証拠といえるでしょう。

ケインズ一般理論コンメンタール 宮崎義一・伊東光晴 共著 39頁

 つまり一個人の余暇の限界効用と労働の限界負効用によって雇用供給量が決まるという古典派の第二公準は完全雇用においてしか成り立たないということだ。
 なぜなら不完全雇用においては、たとえ一個人が雇用供給を減らしても、追加的雇用によって全体の供給量が増大するからである。
 それに労働者が余暇の効用と労働の負効用を比較して、効用最大化を達成するように労働供給量を決定するという古典派の第二公準ほど現実離れした馬鹿げた公準はない。もし労働者がそんな選択をすれば馘首されるであろう。代わりはいくらでもいるからだ。
 だが代わりがないとしたら、確かに第二公準は成り立つ。つまり完全雇用の状態で、他の労働者を追加雇用できない状態なら、労働者にも選択の余地がある。またたとえ馘首されても、すぐに同等の条件で他の企業に採用されうる状態ならば、労働者にも労働と余暇の選択が可能であり第二公準が成り立つ。ミクロの労働者一個人の選択とマクロの労働者全体の選択とが一致する。それが完全雇用の状態だ。
 そういう状態を完全雇用と呼ぶならば、そのような意味での完全雇用は歴史上一度も達成されたことはなかった。
 私見では、そのような意味の完全雇用が達成されるよりも前に恐慌になると思う。なぜなら労働者に労働の負効用を理由に職務放棄されたら、企業経営が破綻するからだ。経営計画が成り立たなくなる。
 賃金高騰による利潤率低下よりも経営管理が不可能になることの方が経営者にとっては脅威であろう。
 したがって私は古典派の第二公準よりも、マルクスの相対的過剰人口の方が現実的な概念であると思う。
 労働者にそんな選択の余地などあるわけがない。余暇は与えられた業務遂行に差し支えない範囲でしか取ることができない。言いかえれば労働者は自分の効用最大化ではなく経営計画を最優先して、計画を妨害しない範囲でしか余暇はとれない。それが労働の現実である。
 なぜそこまで強制されるのか? 
 それは追加的雇用が可能で自分の代わりがいくらでも存在するからだ。つまり労働者が相対的過剰であり完全雇用ではないからだ。

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