「失われた時を求めてⅠ」(プルースト著 井上究一郎訳)
プルーストといえばマドレーヌ、マドレーヌといえばプルースト、と有名になってしまったが、そのものずばり「失われた時を求めて」というマドレーヌを売っている菓子屋がある。
菩提樹の蜂蜜入りということで、「レオニおばさんのプチ・マドレーヌをイメージしました」ということで、エプロン姿の挿絵まである。
まあ、イメージするのは勝手なんだけど、本作品を読めば分かるとおり、「叔母のレオニ」は寝たきりの金持で、エプロンしてマドレーヌを焼くような御婦人ではない。それは女中のフランソワーズの役回りであろう。
とはいえ大きさはまさに小説どおりカップに入るぐらいの大きさだから、ちょっと真似をして食してみたが、小説の話者とは別人だから何のインスピレーションも湧いてこないのは当然のことである。
ところでこれに類した経験、つまり無意志的記憶と感覚素材との結合としては、私の場合は大昔、幼稚園かどこかで嗅いだことのある金物に塗りつけたペンキのイチゴのような匂いである。このようなペンキはもうなくなってしまったのか、今では出会うこともないが、昔、渡り廊下を歩いていて同じ匂いを嗅いだとき、記憶がよみがえるというよりは幼稚園にタイムスリップしたような思いをしたことがある。
だから、大なり小なりこうした経験は誰にでもあるのかもしれない。もっと一般的に薄められたものとしては、プルーストが描いているように、蜂の羽音(日本人ならセミの音だろうが)は単なる虫の音ではなく、夏それ自体が運んでくる音だとも言える。
だが、それにしてもやはり、こうした無意志的記憶があるということと、それを発端として「コンブレー」を書くこととの間には千里の径庭がある。つまり本作品で描かれている無意志的記憶はフィクションだということである。
それは「コンブレー」を読めば分かることだけど、そこに描かれているのは回想としての記憶内容ではなく、無数の洞察に満ちた話者の世界解釈であり、ページをめくるごとに震えおののくような、極めて洗練された複雑精妙な表現世界だからである。それは明らかに強固な芸術意志によって構成された世界であって、とても無意志的記憶によって再現された世界というようなものではない。
「コンブレー」の世界解釈として印象深いのは、これは「スワンの恋」へもつながる世界解釈だけど、愛する女が別の世界に属しているというものである。
ここで大袈裟に「近づきえない、地獄の責苦の時間」というのは、夜会、劇場、パーティーのたぐいに過ぎないのだが、自分がそこから閉め出されている限り、それらは「地獄」というわけである。
恋愛すると世界が変わるとはよく言われることだけど、プルーストが言っているのは、そういうことではなく、世界が複数になるということである。もし自分を含めた世界が変わるだけなら苦悩はない。苦悩が生じるのは恋愛によって世界が複数になり、一方の世界から自分が閉め出されるからである。だから、恋愛によって生じる歓びも、閉め出された世界に瞬間的に入り込めたときに生じるのであって、それは幸福というよりは、むしろ苦悩が沈静化されたものに過ぎないのである。
私は上流ではないので夜会にもパーティーにも無縁だけど、類似の経験を探ってみると、子供の頃、内心では好意をもっていた友達の家を訪問した時のことを思い出す。
子供部屋というのは外界に対して二重に閉ざされた世界である。
一つは家の玄関によって、さらに家の中で家族に対して閉ざされている。そこへ入っていくには、まず友達の家族にあいさつしなければならない。そうした関所をくぐりぬけて到達した友達の部屋は単なる空間ではなく、それこそ別世界のようである。そして机の上に私の貸した本が置いてあるのを見つけると、私は強烈な歓びを感じたのだが、それはまさに何重にも閉ざされた世界に、介入することができたという歓びだったのであろう。もっともそれも永続する歓びではなく、また閉め出されているという苦悩が戻ってくるのである。
プルーストのどのページでもいいが、読んでみて震えおののくことがないならば、読むのをやめた方がいい。貴重な人生を難行苦行に費やすこともない。ただ、いつか時がくるのである。いつか、プルーストを読む時が熟するまで、気長に待つべきである。「失われた時」は小説の題名である以前に、読み手の「時」でもある。これは読むべき時に読まなければ意味のない作品である。
長い間、私はプルーストを読み始め、途中で挫折するんだけど、それは単に長すぎるということだけではなく、未だ読む時期に達していなかったからだろう。
「コンブレー」はもう何十回も繰り返し読んだ。「スワンの恋」は数回、そして「花咲く乙女たちのかげに」で挫折、という経過をたどる。
よく考えてみると、すでに「コンブレー」を読むこと自体が難行苦行だったのだ。私はそれをあたかも大長編の序章のように我慢して読み急いでいたからである。
だが長い歳月を経て、徐々に読み方が変わってきた。慌てず急がず目をこらしているうちに、それまで退屈だと思われた細部が実に面白いという発見がある。「コンブレー」は、その隅々に至るまで驚嘆すべき技と洞察に満ちている。
だがこの作品、いったい何を描いているのか?
まず、幼年時代の回想ではないことは確かである。いくら早熟の幼児でも、このような洞察があったとは思えない。描かれているのは回想を素材とした話者の世界解釈である。
すべてを紹介できないので、気に入った一節を紹介する。これはスワンの愛するオデットという女性が嘘をつく場面で、本当らしくみせるために一部の真実を混ぜているところである。
一体、こいつは何を言っておるのだ!と一喝したくなるかもしれないが、描かれているのは嘘をついた女性の修羅場であり、集合論みたいな理路整然とした分析の陰に、女性の慌てる姿、それも目に見える限りでは平然としゃべり立てているのだが、心の内では図柄に合わない嵌め絵を慌てて一生懸命押し込もうとしている姿が透かし見えるようではないか。そうしたイメージと見事な分析の対比がなんとも滑稽で面白い。
ところで「コンブレー」の中で語っている話者は、もちろんプルースト自身ではなく、プルーストが創作した「私」なんだけど、「スワンの恋」の中で語っているのは一体誰なのだろうか?
いつもそれが気になるのである。誰もそのことに違和感を覚えないのだろうか?そこでは「私」は消えてしまい完全に三人称になっている。
これがコンブレーの「私」と分かるのは、なんと525頁である。そこには「彼の友達である私のアドルフ大叔父を、オデットも知っている」とある。210頁も経過したあとで、それまで背後で語っていたのが「私」と分かるのだ。
そんな不自然な細工をせずに一人称小説から三人称小説へ移行させてしまえば、話は簡単なのだが、そうはいかない。なぜなら、そうしてしまうと「スワンの恋」は「コンブレー」から完全に切り離されてしまうからだ。切り離さないためには、どうしても「スワンの恋」は「コンブレー」の「私」が親類・知人あるいはスワン本人から聞いた話とせざるを得ないのである。だが、それは虚構としても成り立たないだろう。なぜなら、伝聞した話とするには、あまりにも生々しいからだ。このような他者の生への覗き込みは神でもない限り不可能なことである。
一方で「コンブレー」自体にも「私」の直接経験とすることが不可能な場面がいくつかある。特にレオニー叔母と女中のフランソワーズとの二人だけのやりとりである。さしずめ現代の日本だと、ヤボな編集者が注意する箇所かもしれない。それはありえねえだろ、って。
まあ、要するにプルーストの「私」はくせ者である。一体こいつはどうやって、大人の交わす話や、他人の人生をそれほどまで詳細に知ることができたのか?
最初から三人称形式であればいわゆる「神の視点」として何の問題もないのに、なぜプルーストはあえて「私」に語らせたのか? これが私の率直な疑問である。プルースト研究家がこうしたことを問題としているか私は知らない。少なくともドゥルーズのプルースト論にはみられない。これは一応、私の疑問として提示しておく。
「スワンの恋」の後に続く「土地の名、-名」は「眠られない夜に私がもっともひんぱんに思いうかべたそれぞれの部屋の中でも・・・」という書き出しで始まり、あたかも「コンブレー」と地続きになっているようである。
いわば一人称小説を二つに分割して、間に三人称小説の「スワンの恋」を挿入したという体裁になっている。一体なんのために挿入したのか?
ドゥルーズは「愛のシーニュ」と「芸術のシーニュ」というように、いくつかのシーニュに分類して、それらが自動運動する機械として本作品を捉えている。だが、恋愛から芸術へどうやって移行するかが不明である。
この点、ガタリのプルースト論の方が明快である。ガタリによると元々スワンはヴァントゥイユの楽章に惹かれて人生を変えようとしていたのであって、オデットを恋するようになったのは、楽章の中の一小節が醸し出す女性的イメージ(ガタリの用語では「顔貌」)に固執したからだという。
元々、オデットはスワンの好みではなく、芸術の代替物だったわけだ。(ボッティチェリの描く顔に似ていたことが恋の動機となっている)
その恋が病的であるのは、最初の取り違えに原因があり、サン=トゥーヴェルト公爵夫人の夜会で、ヴァントゥイユの楽章全体を聞くことで病から癒えるのである。
まあ、ガタリの解釈は小説の筋書きに沿ったものであり、独特のジャルゴンで修飾したものだから別に異論はない。その指摘は実に的確である。このガタリの解釈を念頭に「スワンの恋」を読んでいると、まさにその解釈を傍証する箇所にぶつかるのである。
この「二度か三度」というのは、オデットの同性愛経験を告白する言葉であり、サン=トゥーヴェルト夫人のいう「大したもの」とは、ヴァントゥイユの楽章演奏である。
この引用文は、まさにスワンの病理的な恋とヴァントゥイユの芸術が接触する箇所であり、愛する女性がもらした真実を告げる言葉のもつ効果が、ヴァントゥイユの楽章を連想させるというのである。この箇所こそが「スワンの恋」の本質であろう。
そこで問題は最初に戻る。なぜ、「スワンの恋」を挿入したのか? 興味深いのは、スワンが恋の病から癒える夜会で、プルースト自身が登場していることである。それは「私」でもなく名前もなく、ただ「社交界に通じた小説家」(ちくま文庫版551頁)とされ、「観察しているのです」と一言述べるだけである。
これはベラスケスの絵「ラス・メニーナス」の背後で階段に片足をあげている侍従が小さく描かれているのに似ている。大澤真幸によると、この人物はベラスケスの分身ということである。(大澤真幸著「<世界史>の哲学 近世編」)
つまり自画像(一人称小説)とは別に分身(三人称の小説家)が描かれているというわけだ。(スワンが研究しているフェルメールもまた制作中の自画像を描いている。)
大澤真幸によると、画家の関心が対象描写から絵画を制作すること自体の意味に向かうとき、自画像が誕生したとのことである。これはまさにプルーストにも当てはまるのではないか。つまり小説家の関心が対象描写から小説を書くこと自体の意味へ向かうこと、それがプルーストではないか。
(成功したかどうかはともかく、その方向性を徹底的に追求したのがソレルスであろう。)
こうしてみると、スワンの病理的恋もオデットの告白もそれ自体では何ら問題ではないことが分かる。それらは対象描写にすぎない。本作品が問題としているのは、人はどのように芸術と関わり、また芸術を取り逃がすかであり、その過程として「スワンの恋」を「観察している」のである。これほど対象描写のたくみなプルーストが目指していたのは、対象描写を超えた小説であり、絵画の革新と同様の小説の革新であるといえよう。
ところでスワンは芸術に近づきながら、それを取り逃がしてしまう。結局、恋の病から癒えることで自足してしまうのである。プルーストの話者である「私」はそのことを踏まえて、ドゥルーズが指摘するように恋愛のシーニュ解釈から芸術のシーニュ解釈に向かうのだが、それが「コンブレー」と「土地の名、-名」の間に「スワンの恋」が挿入された理由であると思われる。それにしても話者である「私」が虚構としても不自然なほどの超人的な観察力と知性を有していることは確かである。それはまったく神のようである。
「土地の名、-名」というのは奇妙なタイトルだが、要するに主人公である「私」がパリから一歩も外へ出ずに、バルベックやフィレンツェ周辺の地名から、様々な夢想を展開し、そうした名前の背後に芸術に似た非現実の領域があることを悟るという話である。さらにそのことは地名だけでなく、「ジルベルト」という初恋の相手の名前からも同様の領域を感得し、最後に時間についても差異があることを指摘することで終わるのである。
このように、「土地の名」から喚起される非現実の領域は、恋愛から生じる「個性づけられた何物か」に等しいのだが、それらはいずれも最終的に芸術の本質へつながっていくのである。恋愛が決定的に重要な事柄なのではない。より重要なことは、世界が名という境界線によって分割され、その背後に、自分が関与できない領域が存在するということだ。
ドゥルーズはシーニュありきで話を進めるのだが、問題はなぜ対象がシーニュを発するかであろう。知人、友人の間にいる限り、シーニュは発しないのである。
プルーストはシーニュよりも根源的なものとして、世界の境界線を示している。ある対象が名という境界線によって囲まれている。それは地名であったり、愛する女性の名前であったり、ヴァントゥイユの楽章であったりする。その囲まれた領域の中へは、自分のもっている「知識や概念」が入り込めないのである。
だからこそ領域内部は外側から解釈すべきシーニュを発するのだ。そうした分割自体がなぜ生じるのかは「土地の名、-名」ではまだ明らかにされないが、最後にボア・ド・ブーローニュの描写を通じて時間のシーニュが提示されているので、おそらく時間が関与するものと思われる。それはこれから展開されることになるのであろう。
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