「おぜん」よ、ありがとう。
先日、実家のタンスとこたつを処分しました。
タンスの中に入っていたのは、高校生の時に買った冬山登山用のジャケット、袱紗やポケットチーフなど使う機会のない小物ばかりでした。
タンスを処分するついでに、古いこたつも処分してほしいと頼まれたので、一緒に市内のゴミ処理施設へ持ち込むことにしたのです。
この古いこたつ、実家で「おぜん」と呼ばれていたものです。
きっと「御膳」のことでしょうね。
家族で食事をしたり、冬はこたつに寝転がってくつろいだものです。
そのうちイスがセットになったダイニングテーブルに置き換えられ使われなくなりました。
部屋の隅に追いやられて何年になるでしょうか。
ゴミの処分施設では、自分の手でタンスとこたつを車から下ろし、指定された台の上に載せます。
「これで全部です!」
係のおじさんが「はーい」と手をあげて、台の操作をはじめます。
台の奥にある大きな扉が開いてゆきます。
扉の向こうは、巨大なクレーンが吊り下げられた深い深いピットになっています。オレンジ色の照明がなんとも不気味な雰囲気を醸し出しています。
台はゆっくりと傾き始めて、タンスとこたつが、ずるずる音を立ててピットに向かって滑り出します。
台から落ちて見えなくなると、「がちゃーん」と大きな音がピットから聞こえてきました。
その時ですが、急に名残惜しい気持ちになって、何か取り返しのつかないことをしてしまった気持ちになったんですね。
というのも、小さい頃の「おぜん」を囲んだ一家団らんの風景が思い出されたのです。
「おぜん」を囲んで食べた夕食のこと、父とこたつに入りながら見たテレビ番組のこと、クリスマスにフライドチキンをたくさん食べて気持ち悪くなって散々だったこと。
当時、当たり前だと思って過ごしていたたくさんの時間や会話。
それが、「がしゃーん」という「おぜん」が壊れる音ともに思い出されたのです。
もうボロボロで汚くなっていた「おぜん」ですが、当時は当たり前だった何気ない思い出を記憶していたのです。
「おぜん」の思い出は、とりたてて記憶に残るものではありませんが、今思えばささやかな幸せです。
思い出とは、実は時間が経ったときに初めてかけがえのないものと感じるのでしょう。
今この瞬間が、何の変哲もない当たり前の日常だっとしても、
時間を経た後にはかけがえのない思い出になっているのかもしれません。
私は「おぜん」が、
「ありがとう。」
と言った気がして、
係のおじさんに聞こえないように
「ありがとう、おぜん」と小さく言って車に乗り、処分場を後にしました。
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