コロナ禍がもたらしたモノ・コト~その9~

当時(昭和50年代)杉並区は「東京第三学区」に含まれており、いわゆる受験戦争の最激戦地であった。その上私の生まれた昭和42年は「丙午(ひのえうま)」の次の年であり、迷信に従って前年に出産を控えた大人たちの影響もあり、出生ラッシュ。分母(子供の数)は増えても分子(一流校の合格者数)は増えないので、自ずと倍率は上がって競争は激化する。子供の意思に関係なく、「学歴至上主義」の親たちにとってのプレッシャーは高まる一方・・・という時代的タイミングでもあった。

3年間義務教育をまとに受けていない状態から、いきなり東京第三学区の小学校に「ぽんっ!」と転校してきたので、周囲の雰囲気に馴染むはずもない。授業にもまったくついていけず、一番後ろの隅の席で両足を机にのせて終日暇をつぶしていた(消しカスを集めて粘土状にし、丸めてピンッと飛ばすなど…)。ちなみに養護学校時ではこのような態度はかなり大目に見られていた。

そんなこんなで一か月くらいが過ぎたころ、放課後に担任の先生がわが家を訪ねてきた。生徒の私は何も聞かされていなかったが、母には事前に連絡があったと思われる。狭い玄関で深刻な雰囲気の立ち話をしていた。私は2階の踊り場に這いつくばって、見つからないように大人の会話に耳を傾けた。どうやら母は泣いているようであった。

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