見出し画像

『未来を創るお笑い改革〜日本の笑いを「おもろい」から解放せよ〜』vol.2

節1: 問題の提起と書籍の目的

項1: 現代の問題と背景

日本においてそもそも「お笑い」とは何だろうか?
「テレビの中にあるもの」
「簡単そうに見えて実は技術が必要なもの」
「ネタをして評価をされるもの」

そして、カッコいい存在と認識しているということ。

こんなところでは無いだろうか。

その象徴がダウンタウンであり、松本人志氏だ。

それはこの数十年、連日、テレビで繰り返し繰り返しアナウンスされてきた。

しかし、それは本来、「お笑い」の一つの方法にすぎない。

例えば、
粗悪性と意地の悪さを秘めながら、「ナンセンス世界」を創り上げるテレビのコント番組。

「カモシカの脚のような脚」などの言葉遊びのフリートークやラジオ番組。

そして、漫才、コントなどの賞レース。

どれも、本来は「お笑い」という括りの中の、テレビ業界というカテゴリーの中の、さらに吉本興業が中心となって提供する無形サービスの「商品」である。

これらは、吉本興業、テレビ業界、そしてその象徴として松本人志氏が据え置かれたものであり、
私はこの無形サービスのことを「おもろい」と呼んでいる。

「おもろい」という「商品」だ。

いうまでも無く「おもろい」は関西弁で「面白い」という意味である。

松本人志氏から発せられる「おもろい」という言葉で、この「おもろい」という商品は育ってきた。

この「おもろい」は本来、
「お笑い」という表現の一つのジャンルであり、商品にすぎない。

この「商品」がいきすぎた。
この「おもろい」が問題なのである。

日本のおもむきや、文化を否定し、排他的に市民権を得たのである。

「価値観」「文化」として、浸透してしまったのである。

この「おもろい」が、
いつの間にか、「お笑い」という大きなカテゴリーの全てである様な状態が生まれ、
私たち日本人は「お笑い」イコール「おもろい」であることを疑わない状態にまでなってしまった。

和食で考えると分かりやすい。
和食の中には、蕎麦も寿司も、饅頭だってある。
しかし、私たちは現在、和食の全てを「寿司」と言っている様な状態にある。

「和食は寿司以外無い」と言っている様なものである。


目1: 現代社会における具体的な課題

これらの何が問題か。
1つは「面白い」や「お笑い」、「コメディ」含め、日本の「笑い」という文化が狭義的なものになっていることである。
また、最も重要な問題として、その「おもろい」はとても閉鎖的で、独善的なものになっていることである。
そして、その状態を認識できていない。この3点にある。

簡単に言えば、「おもろい」という定義付けによって、日本人の「笑い」に紐づく価値観が、画一的なものになってしまっているし、それが顕在化されていないということである。

これは、本当に恐ろしいことだと思う。

昨今は、それこそインターネットの台頭や、テレビの衰退もあり、
だんだんと若い世代の中から、「おもろい」に囚われない表現が増えてきた。

しかし、それは本来のお笑いでは無いとされ、
「おもろい」に付随する定義である「スベってる」という扱いを受けることもある。

過去を見ると、立川談志氏の否定もある。
立川談志は落語家でありながら、テレビ番組のプロデュースもした。
その一つが「笑点」である。
「おもろい」は「笑点」を「おもろない」「スベっている」と否定した。

立川談志は松本人志氏のショートフィルムについて、
うまくできている、ナンセンスであり、素晴らしい表現だと評価し、
さらに、松本人志氏が感覚的に表現していることについて、
芸人として、詳しく言語化してあげますよ。といった、エールも送ったことがある。

しかし、松本人志氏はそれを断った。
さも、談志の解説は、的を射ていないし、
自分たちの表現は、これまでの「おもんない演芸とは違うねん」という姿勢だ。

これまでの「演芸」文化も否定し、
テレビ業界と共に市民権を得た「おもろい」という商品。

しかし、現在テレビ業界はスキャンダルという事案によって、
呆気なく松本人志氏を失ってしまった。

「おもろい」はどこにいくのか。

また、これまで「おもろい」が「お笑い」の全てと考えていた私たちはどうなるのか。

私や多くの元芸人が経験した、アイデンティティクライシスがまもなく日本全体にぼんやりと覆ってくる。この混沌の理由が分からないという風に。

なんてことは無い。
「おもろい」から解放されただけだ。

では、私たち日本人は「おもろい」から解放されたら、どうなるのか。

「おもろい」を超える喜び、楽しみは無いじゃないか。

そんなことはない。

日本人はそもそも「おもろい」に囚われる前から、
よっぽど素晴らしい価値観を持っていた。

それはなんだ。

私はそれを「粋(いき)」だと考える。

日本人は「粋」を持っている。

立川談志はそれを「業の肯定」と定義したし、表現する際には「イリュージョン」とも呼んでいた。

日本人は「粋」を取り戻し、「おもろい」を一つの商品と正しく整理整頓することで、

アイデンティティを取り戻し、世界に「粋な姿」で関係していく。

それが、本書の目的である。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?