【努力と夢、イチローとディズニー以外の新たな視点】
書籍やセミナーにて、
「努力を続けるということはこういうことです。」とイチローを例に挙げる書籍。
夢の大切さを語る時、
ミッキーとウォールトがシルエットで手をつないでいる写真を出すセミナー。
何度か見たことあるのではないでしょうか。
努力の大切さ、夢を持つことの大切さを伝える時、
イチロー、ディズニーの言葉や逸話を持ち出すことが多くあります。
後、「ビジネスで成功するには?」
と言って「スターバックス」を例に出す等、
例題の均一化というか表面的な使用が
最近、ますます目に余ります。
実際、それを語るのが、
イチロー本人や、ディズニーランドで働いてた体験談とかなら分かるのですが、
努力や夢の大切さを示す根拠として、
二言目には「イチロー」「ディズニー」の例えを出す。
本当に多いです。
これを「イチロー問題」と勝手に呼んでいまして、
別にイチローやディズニーを否定している訳では無いのですが、
問題は下記通りです。
この言葉が記号的になっており、
思考停止になっているということ。
また、
非常に多くの人の心にリーチしますが、
努力、夢のモデルケースとして限定的になっており、
最適解の様な風潮で、強度な価値基準となっていること。
私自身は、
イチローもディズニーも好きです。
もっと言うとディズニーは相当好きな部類です。
だからこそ、
簡単にディズニーを記号的に使うなよ。
という思いがあるのも認めます。
イチローもディズニーも好きですが、
価値観の固定化が生まれていると感じます。
「多くの人の心にひとまず刺さりやすいから。」とか、
「自分の主張に簡単に説得力を持たせることができるから。」とか、
「イチロー、ディズニーを出せば反論されないから。」とか、
とても便利なのは分かります。
ただ、努力、夢ってこんな一辺倒なものでしょうか。
もっと濃淡があるはずです。
子ども達に対して、
努力はイチローの様に、
夢はディズニーの様に、
これらを正解として落とし込んでいっていいのでしょうか。
少なくとも、
このモデルケースを最適解として、
努力の仕方や夢の持ち方を、限定的にしてはいけないはずです。
この見えない常識みたいなもの。
もう一度考えて、
顕在化することは大切だと思います。
イチロー=努力
なのか?
ディズニー=夢
なのか?
鈴木一朗さん、
ウォールトさんを洗練化させすぎているのは敬意が欠けているし、
彼らの本当の真意を理解しておらず、
論調の材料にしていないか疑いたいものです。
そんな書籍やセミナーだけを鵜呑みにして、
自分と比較し、自分を鼓舞し、
場合によっては否定してしまっている人もいるのではないか。
「イチロー」「ディズニー」を
努力の代名詞、
夢の代名詞としてだけで扱うことは、
一種のレッテル張りです。
「イチロー」「ディズニー」を簡単に使っていないか。
努力、夢などの概念を形骸化させていないか。
日々、気にしていきたいものです。
あと、ビジネス書では、
スターバックス。
私は、
スターバックスで9年、
6店舗で働いていたので
少なからず語ってよしw
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?