私論②~不要不急の呪い~
コロナ禍に関する様々な言動と行動を見ていて、妙な対立があることに気づきます。これは命に関わる問題だから、すべてに優先する。こう言われると、もう返答さえできません。世界史の情景の中では、命はさほどに大事に扱われなかった。現在でも。それは、その国、その時に倫理が不足していたか、ややもすると崩壊していて、逆に、憎しみ、怒り、非合理性が支配的だったからです。私達は、数々の不幸を経験して、生命を大事にするという優先命題を自ら立て尊重します。
これに対して、反論ではないので“対して”ではないのですが、日々、生きていくことも大事だという主張でもあります。お店の閉店、会社の休業・縮小、結果としての無収入、生活苦。これも大変困る、という訳です。双方、合わせると、命も大事だけど経済も大事だ、という主張になる。この対立はやがて1つの現実的な悩みになって現れました。日本も含めて、外出禁止という“命を守る”観点からの要請を、いつ解除するか悩んでいます。優先度は明らかなのですが、日々、生きてこそ命は大事、という主張もあります。命と経済なんてバカげた対立だと、済ませるわけにもいきません。しかし、この話はここで止めておきます。これは前置きです。以下が本論。
不要不急が言われています。ここには節約という意味合いもありますし、贅沢を慎むという道徳もあり、また高い効率を求めるという合理性も少しだけ感じられます。ですから不要不急は資本主義の精神に合致しているように見える。しかし、そうではないのです。
不要不急を一方的に主張すると資本主義は困ってしまう。というのは資本主義には不要不急がたくさんあるからです。極端に言えば不要不急を拡大していくことで成長を続けられる。とんでもない主張のようですが、これは経済学の教えるところです。
すぐに気づくことですが、何が不要で何が不急なのかは個人的な判断に任されています。それは個人にしか判定できない。私達は、それぞれ不要不急の範囲を決めているし、その範囲は私達が置かれた時と場合によって変化します。だから、不要不急は社会的には定義できません。
個人の自由や権利よりも国家が優先し、これが社会を代表してしまう。そういう国の典型は社会主義国とか、資本主義国でも独裁の国、政府の強権がある国々です。こういうところでは、簡単に、外出禁止令が出せるし都市封鎖などもできる。私達が目撃したとおりです。
不要不急の不要に注目します。不急も、実は同じことなので、「不要」をまず取り上げます。対象は商品。私達は、ある商品に対して、それが必要(不要の反対概念)か、そうでないか(不要)毎日のように判断しています。なぜ、ある商品が必要かどうか判るのかというと、それを使用した経験があるから、あるいは経験した人からの情報(広告なども一方的ではあるが情報です)を得ているからです。経験や情報を使って何を判断しているのかというと、商品の有用性です。これを効用といいます。商品は、何らかの役に立つように製造されている。そして、効用は使う個人によってその大きさが違う。さらに効用は、使う人の状況によって変化します。外出自粛だから店を閉めるとは限らず(営業の自由も、営業することの効用が基礎にある)、パチンコに行かないでと呼びかけても、それに高い効用をみている人は止められません。パチンコに行く人は、現状では、ネガティブな目で見られていますが、そうする人々が感じている、期待する、実際に得る効用は、否定できません。こういう際だから、国が標準効用を決めたら、という権力出動への待望もありますが、それはかなり危険です。要と不要が個人の判断に任せられている。この状況は人々の趣向の差だけ(つまり個性の違いの総和だけ)拡大します。
さて、ここで、商品の生産者に目を移します。生産者がどの商品を作ってもよい自由、つまり選択の自由を持っています。どの商品が儲かりそうか?こう考える時、生産者である私の思考は使用価値から離れている。なぜなら私が生産する商品は私は使わないからです。商品は他人に販売される。つまり他人・買い手の持つお金と交換される。使用価値・効用は、有用物として使用されるという商品の持つ属性のひとつですが、買われる、お金と交換されるという属性は、これとは別のもうひとつのもので交換価値といいます。交換価値と使用価値、日本語にするとわかりづらいのですが、『資本論』の第一巻の要です。交換価値と使用価値の対立、哲学者マルクスは弁証法を駆使して天才的な理論を展開していますが、それは今日の状況も説明できます。不要不急の流布で資本主義が困るというのは、両者の対立の現代的な表現です。本質が現象の露頭に出現している良い例なのです。
どの商品を生産したら儲かりそうか。大量に売れるモノ、と考えがちです。しかし、そうであれば多数の生産者が参入し競争になります。大規模生産には大きな投資が必要なので参入障壁は高いのですが、今日のように巨額の資金投入が金融機関を利用することで可能であれば、そうでもない。世の中を観察してみると、大量商品での大儲けは長く続かない。世間に大きな需要があるので、競争がほどほどで、かつ市場の分割があれば、安定的な収入にはなりますが、大儲けはあまりないのです。利潤率が高くない。
日用品は儲からない。その典型は農産物です。儲かるのは、需要は大きくないけどある程度あって、特殊な商品です。特殊といっても新しい発明によるものではなく、ある工夫によってさほどのコストをかけずに従来のモノとは差別化される商品です。人々の嗜好が拡大すると、それに応えて商品は次々と開発されていく。そしてこの拡大は方向性を持っている。それは、人々が生きるのに必須なもの(衣食住に関係)から、必ずしもそうでない、分類上は奢侈品、贅沢品、高級品へと。この方向を後押しするのが、後者に属する商品の方が儲かるという事情です。
大きな安定した需要のある必需品を生産・販売しても儲からない、という現象は今日では「コモディティ化地獄」として知られています。アメリカでいえば、代表的なのは小麦、ミルク、石炭など。日本では、ミルクに加えて、鶏卵、ティッシュペーパー、菓子パン、食用油など。これらの商品は多くのメーカーが参入して、各社の工夫はあるが、消費者の眼には同じように見える。そこで、この地獄から這い出すために新機軸を打ち出そうとする。つまり差別化・高級化路線、ブランド化です。結果として不要不急から離れようとするのです。(ジョセフ・ヒース、栗原百代訳『資本主義が嫌いな人々のための経済学』NTT出版、2012年、第8章を参照。)ついでに。ヒースの本は、上に示したような数々のエピソードがとても魅力的です。著者の博学が光っています。
結果として品目でみれば必須・必需品より、そうでない品目の方がはるかに多い。そして、そちらの方が利益は高いのです。もっとも、不況がやってきて人々の所得が下がってしまうと、必需品の方へベクトルは戻ります。高級品ビジネスというのはリスクは高い。しかし資本主義の精神はリスクを好みます。資本主義は無駄と贅沢の上に乗って展開する。しかし、無駄というのは使用価値的に見たらなのであり、儲かるという観点ではそうでないのです。資本主義は価値法則に従う、特殊な価値観で律せられているのです。不要不急でも儲かれば、作るし売る。資本主義は、生物学的に生きるのに必須という商品群から、その発展とともに離脱していく。ですから、改めて周辺を眺めてみれば、不要不急は実に多い。「経済が成熟化すると、生活必需品や社会インフラ費用の割合は低下する一方、不要不急の消費の比率は高まる。誤解を恐れずに言うと、経済はほぼ「遊び」でできているのだ。」(日本経済新聞の日本経済新聞の編集委員、中村直文氏。同紙のOpinion 2020年4月18日付)不要不急の中には、人間の文化的発達とともに現れる芸術的・文化的欲求を満たすものもあります。また、人間が放牧・移動生活から農耕・定住生活に移行した途端に発生した問題、それは退屈ですが、それを紛らわすための“商品”も出現します。観光、娯楽産業の提供するものは、それです。そして、退屈するのは、たいてい夜ですから、そのあたりのサービス産業も出現します。経済は不要不急に向かって拡大していく。経済学者は、口にはしないが、これを容認している。しかし、理論の裏付けがないから、今度のことのような事態となり、不要不急は控えよ、とピシャリと言われてしまうと、途端にうろたえて、それでは“生活は成り立たない”という庶民レベルの反論に同調し、ポピュリズムの片棒を担ぐことになるのです。経済学が持つ、医学や生物学への劣等感も大いに影響しています。
不要不急は、商品を使用価値の観点から、生命維持に必要な順に並べるという操作によって生まれる概念です。これに対して、資本主義は価値法則で律せられた体系です。利益は剰余価値を源泉とし、それは商品が買い手にとってどう役に立つかには関心がなく、売れる・価値がつく、だけに関心がある。そして、傾向としては、必需品から遠いところにある商品に向かう。そこに高い利益が見込まれているのです。人々の欲望は次々と展開し拡大していく。その最先端をとらえた生産者がもっとも儲かる。『資本論』のいう特別剰余価値が生まれます。
人間にとって実は重要なのは使用価値です。有史以前から、ヒトは道具を使い自然に働きかけ有用なものを作り続けた。儲ける、なんていうことを考え始めたのは、人類史のごく最近のことです。※
※『サピエンス全史』(上)(下)ユヴァル・ノア・ハラリ、柴田裕之訳、河出書房新社、2019年。
この本を読めば私達が当たり前と考えた価値・利益・資本の時代が、いかに短期間であるかわかります。人類が交換価値に目覚め貨幣を手にしたのは、ほんの数千年前のことです。もっとも、この価値革命に基づく資本主義は人類に偉大な生産力を与え、今日の物質文明を大いに発展させたのです。その初期に、『資本論』が描くような働く人々の悲惨な物語があったとしでも、です。
資本主義になって、価値・剰余価値が出現し使用価値と対立し、それを乗り越えて、交換価値の優位を確立した。コロナ禍によって引き起こされた事態は、外側からですが経済を襲い、一度、逆転してしまった使用価値と交換価値の関係の再逆転を迫っているのかもしれません。それは資本主義の変容を示すことになるかもしれません。