21/04/07 【感想】文学少女対数学少女

陸秋槎による短編推理集『文学少女対数学少女』を読みました。
作者は中国人で、原著は中国語。いわゆる華文ミステリと呼ばれるものの和訳刊行です。

十数年前に台湾に旅行したことがあり、そのとき本屋を見かけたので入ったのですが(本屋を見かけたら入るのは当然)、その店頭に区画が作られ日本の本格ミステリが平積みされていたことを覚えています。そんなに人気なんだと驚いたことも。そこで「日本推理之神」とポップがはられていたのが島田荘司でした。

かように華文圏での本格ミステリの盛り上がりに関する最も古い記憶は十数年前までさかのぼることができるのですが、華文ミステリにはほとんど触れられていませんでした。
たしか唯一読んだことがあるのが『エラリー・クイーンの災難』というクイーンのパスティーシュ集に収録されていた「日本鎧の謎」という作品。馬天という中国人作家によるものでした。
今回この『文学少女対数学少女』に興味を持ち、手にとったきっかけはハヤカワミステリマガジンのクイーン特集に陸秋槎が寄稿していた「後期クイーン百合」というエッセイ。僕と華文ミステリの縁はつくづくクイーンが絡むようです。(そのハヤカワミステリマガジンの話はこちら)

前置きが長くなりましたが、本書は後期クイーン問題をめぐる実験的な試みや新本格ミステリへのリスペクト、それを数学に紐付けるケレン味、百合をやる気満々な舞台設定など作者の愛情や楽しんで書いている感じが伝わってくる作品でした。
総じて、この作品の一番の魅力は「親しい女学生2人が本格ミステリと数学のややこしい話をしているテキストである」ということだと思います。秘封倶楽部のCDについてくるブックレットみたいな感じ。
下に載せるあらすじは本書の成分をかなり的確に想起させるものなので、これを読んで興味を持たれた方にはおすすめです。
個人的ベストは3つ目の短編「不動点定理」。

本編に加えてもうひとつの見所が作者あとがきと原著についていた解説(これもちゃんと日本語訳版に収録してくれているのが素晴らしい、早川GJ)。
ここで日本の新本格ミステリが「海外ミステリ」として扱われているのがパラレルワールドを見るようでおもしろかったです。馴染みのある国内ミステリのタイトルたちがペダンティックに羅列されているさまを見る楽しみはぜひミステリファンの方には共有してもらいたいところ。そして日本語版解説は麻耶雄嵩が書いているというのがもう他にはありえないという人選で、ここを外さないのはさすがの一言。

あらすじより下はネタバレ感想です。

絢爛たる華文×青春本格ミステリ
高校二年生の〝文学少女〟陸秋槎は自作の推理小説をきっかけに、〝数学少女〟韓采蘆と出逢う。彼女は作者の陸さえ予想だにしない真相を導き出して……犯人当てをめぐる論理の探求「連続体仮説」のほか、ふたりが出逢う様々な謎とともに新たな作中作が提示されていく華文青春本格ミステリ連作集。解説・麻耶雄嵩
(あらすじは早川書房公式HP内作品ページより)

連続体仮説

本書は作者と同じ名前の登場人物・陸秋槎が登場し、作中の陸秋槎も推理小説を書くという設定になっています。毎回、作中作として推理小説が出てくるのが面白いところ。
「連続体仮説」では陸秋槎が書いた推理小説に対して韓采蘆がもろに後期クイーン問題で論じられているような指摘をするのですが、逆に言ってしまえばそれだけの話でもあり。一応最後に問題の突破法のようなものが提示されてオチになるんですが、その突破法自体はあとがきに名前が出てくるリスペクト元でも出ているので目新しさはないかなあ。

あと連続体仮説に関しては『「無限」に魅入られた天才数学者たち』という読み物がめちゃくちゃ面白いのでおすすめです。これも早川。

フェルマー最後の事件

「作中の探偵が知り得ない情報を使って真相が説明される」という、通常ミステリでは許されない構成をあえてやっているのが面白い一編。

本書では毎回作中作が登場するのですが、
1. 「連続体仮説」では作中作が改変されていく
2. 「フェルマー最後の事件」では探偵が知り得ない情報を使って真相が説明される
3. 「不動点定理」では作者の心情というメタレベルの真相が読み解かれる
4. 「グランディ級数」では真相が不定(読者による最も面白い推理が真相となる)
と、いずれも「作中作だからできる構造」がとられているのが魅力的。また頻繁に「この情報をわざわざ書いているからには手がかりのはずだ」というメタ読みがされるのも面白いです。1,2,3はいずれも異なる登場人物による作品で、これも短編集としてとても楽しいです。

不動点定理

小粒ながらもよくまとまった佳品で、個人的に本書のベストワン。

まず、推理としては結局不備が見つかることになるものの韓采蘆の「トリックはわからないが、トリックの存在さえ証明できれば犯人を一人に絞り込めるのだからそれで十分」というアプローチが非常に素晴らしい。ミステリを読み慣れた人にとってはまさに盲点で、このアイデアだけでもこの短編には価値があると思います。

(作中における)実際の事件を扱う場合、警察や検察の機能の一部を担う探偵は犯行の立証まで行うことが期待されており、具体的なトリックの内容を説明することが求められています。
また本来トリックつきの犯人当て小説は「トリックの解明によって犯人の特定と犯行の立証ができる」ように作られているべき。もっというと、「トリックが解明できないと犯人の特定や犯行の立証ができない」という属性も備わっているとよりハウダニットとして一層お行儀がいい。
というわけで、今回のような特殊なケースのみ成立する面白い解法ですね。

そしてこのアプローチを不動点定理にからめて語る手際も面白いです。韓采蘆が使った手法はふんわりしたε-δ論法のようなものでしたが、ここで連想をきかせて不動点定理を出してくるのがフレーバーがきいています。

そんな韓采蘆の推理ですが、不備があることを陸秋槎が指摘します。トリックの存在によって特定できたのは「トリックを仕掛けたのは誰か」であり、トリックを仕掛けた人物が犯人であるとは証明されていない。このあたりはミステリに染まっていない韓采蘆の推理とは逆に、ミステリを読んでる陸秋槎だからこそ疑えるところを突いています。

そして何より本章の白眉は陸秋槎が「夏籠がこの推理小説を書き、読ませたことの意図を看破する」シーン。他の推理小説ならば普通の探偵行為なのですが、本書においてはこの「意図を読み取る」推理を文学少女・陸秋槎がやってのけることに大きな意味があります。いわゆる「国語の問題」なので陸秋槎の担当なんですね。
「数学少女」と「文学少女」が二人の探偵として並び立った、本書の面目躍如というべき良作です。

グランディ級数

「『日常の謎』作品の世界に殺人事件を入れて、『日常の謎』の枠をやぶることなく脱出する」という興味深い作例です。
ところで探偵役(韓采蘆)を置いて視点人物(陸秋槎)が連れ去られるというラストは、あとがきや解説でタイトルが挙がっていない麻耶雄嵩の別の短編集のオマージュなんでしょうか?(リンク先はその短編集なので要注意)

*   *   *

どれも面白い所がありリスペクトにあふれた作品なのですが、結局リスペクト元を超えてこなかったなあというのが読後の感想でした。飛び道具で勝負しようとしている割に、いまひとつその飛び道具に目新しさがなかった印象。
一方で「不動点定理」で扱ったギミックは目を引く派手な飛び道具ではないながらも地についたもので、道具をうまく使いこなせていたと思います。