24/10/21 【感想】ナッシング・マン

キャサリン・ライアン・ハワード『ナッシング・マン』を読みました。

12歳のとき、連続殺人鬼〈ナッシング・マン〉に家族を惨殺されたイヴ。唯一の生存者である彼女は成人し、一連の事件を取材した犯罪実録『ナッシング・マン』を上梓する。一方、偶然この本を読んだ警備員ジムは、自分の犯行であることが暴かれそうだと知り焦燥にかられていた――。犯人逮捕への執念で綴られた一冊の本が凶悪犯をあぶり出す! 作中作を駆使し巧緻を極めた、圧巻の報復サスペンス。

『ナッシング・マン』 キャサリン・ライアン・ハワード、高山祥子/訳 | 新潮社

上のあらすじだとイヴが主人公のように書かれていますが、視点人物は警備員ジム。かつて連続殺人を行い、証拠がなく人物像が浮かび上がってこないことから〈ナッシング・マン〉と称されながら逃げおおせた存在です。彼が偶然、自身の過去の犯罪を扱った新刊『ナッシング・マン』の存在を知り、それを読むのです。そして実際に作中の犯罪実録『ナッシング・マン』は作中作として挿入され、視点人物たるジムと同じように読者もそれを読み進めることになります。

このように非常に面白そうな構造をしている本作なのですが、読んでいるとちょっと意外というか、面白そうな構造の割には「ズラし」ともいうべき作りをしていることに気づきます。

本作のような犯人視点で追い詰められるタイプのミステリって、読者も視点人物に感情移入してハラハラしたり、逆に犯人の完璧な導線の切り方を見て「本当に探偵は辿り着けるのか!?」ってドキドキしたりするところに脂が乗っているものですが、本作はそこの脂が極端に少ないんですよ。
ジムは好感の持てるところが一切なくてむしろとっとと捕まってくれって感じなので感情移入してハラハラなんてことが一切ない。一方でめちゃくちゃうかつな行動を連発するので完璧とも程遠い。

なんでこんな設定、書き方をしているんだろうと思っていたのですが、読み進めるとその意図みたいなものが見えてきます。ここからは下のネタバレ感想で。


ここからネタバレ


終盤に挿入される作中作の方の『ナッシング・マン』において、連続殺人犯の人物像を講義するシーンが特に印象に残っています。創作の中だと連続殺人犯は高いIQを持つ存在として描かれることが多いけれど、実際は連続殺人をしているということには個性のない平凡でつまらない人物である、ということがわざわざ1チャプターかけて書かれるくだり。
ここで顔のない殺人鬼「ナッシング・マン」がとりたてて特徴のない存在「ナッシング・マン」というダブルミーニングを帯びるのが面白いところ。

上に書いたようにジムをもっと魅力的にしてエンタメ的に盛り上げる手は色々とあったのでしょうが、それらを捨ててでもジムという連続殺人犯をこの造形にし、彼が一方的な暴力をすること以外のすべてに失敗しており、落伍者であり、自尊心だけが膨れ上がった惨めな存在であることを強調したのではないでしょうか。この連続殺人鬼像のつまらなさにこそ本作の文学性があったのだろうと思います。

あと、ナッシング・マンの生き残り同士が会ってお互いの属性や経験を共有し共通点を探すくだりは面白かったですね! これっていわゆるミッシング・リンクものの連続殺人で警察や探偵が被害者間の見えないつながりを探す作業なんですが、生きていたら当人同士でそれができて遥かに効率的なのか。実際このミッシング・リンク探しによって一気にジムが捜査線上に浮上するわけで、気持ちの良い展開でした。

ちなみに僕は半分ほど読んだあたりで「これで本当にジムが本に釣り出されて破滅するだけだったらあまりにつまらなすぎる。なにかドンデン返しがあるに違いない」と思い、

周到に下調べしてから犯行に及ぶナッシング・マンが家族を1人だけ取り逃がし、あまつさえ目撃されたのに生かしておくとは考えづらい。実はイヴという生き残った女の子は存在せず、当時の報道がナッシング・マンを騙して釣り出すために「実は生存者が1人いた」と喧伝しており、それを聞き続けたジムは自分の記憶の方をそっちに合わせてしまったんじゃないか。作中作の方の『ナッシング・マン 生き残った者による真実を求める調査』はまるで自分が生き残った女の子であるかのように書かれたフィクションなのではないか。

――と仮説を立てて読んでいました。もちろん完全な空振りでした。