25/01/11 【感想】インディーゲーム中毒者の孤独な幸福
ソーシキ博士『インディーゲーム中毒者の孤独な幸福』を読みました。
インディーゲームあさりを趣味とする筆者がそれらを紹介していた連載の書籍化です。ゲーム作者にDMで直接取材したり10分1ドルでゲームを作るよという人に100ドル渡してゲームを作ってもらったりといったフィールドワークも魅力ですが、一方で世界中のインディーゲーム制作者たちに国際情勢の影が落ちたりといったシビアな展開も描かれています。
取り上げられているインディーゲーム作品にはメッセージ性の高い作品もあれば私小説のような作品もあり、かと思えばうんこするだけの作品もある。というかうんこするだけの作品、多すぎ。ひたすらうんこする作品を羅列するチャプターすらあります。
「マリオっぽい作品」の系譜を紹介していくくだりがとても面白かったです。きれいに言うとマリオのシンプルなゲーム性が様々なフォロワーを生んでいる、ということになるんですが、Supra Mayro Brossというパロディ作品の続編にSupra Mayro 64が出たと思えば他の人がパロディ作品のキャラたちを集めてSupra Smash Bros(要はスマブラ)を作り、なぜかペプシマンもプレイアブルキャラクターになっていたりする。もうハチャメチャ。
インディーゲームはなんといってもその自由さに大きな魅力があるものですが、読んでいるとこの自由というのは制作側に限ったことではなくプレイヤー側にもあるのではないかと思いました。
企業によってちゃんと資本が投入されきちんと制作されたゲームというのはプレイヤーの受け止め方を計算して織り込んでいて、そして発売されるや受け止め方のコンセンサスのようなものが形成されてしまうことがままあります。あえて極端な例を言うなら、ある作品が感動の名作と評判になってしまったらそれ以降のプレイヤーには「感動する」か「感動できずモヤモヤする」かしか選択肢が残っていない。
本書で取り上げられているインディーゲームは逆に、受け止め方について悪く言えば丸投げ、良く言えばプレイヤーの自由に委ねている印象が強いです。その委ね方ときたら並大抵のものではない。
本書で紹介されているインディーゲーム「Stilstand」では面倒くさがりながらパーティーに行って全然楽しめなくて憂鬱になるという演出があるそうですが、これはまさに「パーティーはアゲアゲで楽しいものだというリアクションの押し付け」に逆行しているわけで、上述したようなポジティブな反応がコンセンサスで決まっていることに対するダルさそのものが表現されています。
インディーゲームを介した作り手と遊び手の非同期的で自由なコミュニケーションは本書の底流にずっと存在感を放っています。
インディーゲームの個人制作も、一人部屋にこもってそれを遊ぶという営みも、それぞれ孤独なものです。しかし確かにそこにはコミュニケーションが存在する。ともすれば同じ場所で酒を飲むパーティーよりも更に。そしてそれで幸福になれる人も必ず存在する。
「ものを作ること」と「作られたものに触れること」の間に存在するプリミティブな関係性を思い出すためのヒントを、本書に描かれたインディーゲームからは感じられるのかもしれません。
数多くの個人的なゲームたちと確かに交流したのだという幸福な錯覚は、自分と世界との距離を見つめ直そうとする私に流れる孤独な時間を、今も静かに支え続けてくれている。