見出し画像

イスラエルから見たシリア情勢−2

イスラエルとシリアの国境、ゴラン高原

イスラエルとシリアの境界線には「ゴラン高原」と呼ばれる地域がある。この地形は、ガリラヤ湖畔(海抜約-200m)の東側から谷を登り、海抜400m付近からなだらかな高原が広がるもので、北に進むとシリアの首都ダマスカス(約60km)に至る。車で約1時間の距離だ。西側のイスラエル領は低地に位置し、この高原からよく見渡せる。また、北には標高約2000mのヘルモン山脈がそびえ、山頂には雪を頂く美しい景観が広がる。この雪解け水は夏の乾季にヨルダン川を通じてガリラヤ湖へ流れ込み、死海まで地域を潤す重要な水源となっている。

高原の南には、ヘルモン山や東側のドゥルーズ山から流れる水が谷を刻み、ヤルムーク川となる。この川は深い谷を形成し、ヨルダン・ハシミテ王国とシリアの国境を作り出している。旧約聖書では、この地を「バシャン」と呼んでいた。紀元66年、ユダヤ人はローマ軍との戦争を開始し、紀元70年に敗北してエルサレムが陥落。この戦争で多くのユダヤ人がゴラン高原へ避難してきた。現在、カツリィンという街には当時のシナゴーグの遺跡が残り、ガムラと呼ばれる渓谷にそびえる丘は、ユダヤ人がローマ軍に追い詰められ自決した場所とされている。

「ゴラン」という名称はヘブライ語で「Geulana」(避難の地)に由来すると言われている。イスラムが到来する7世紀までは、この地域にはローマやギリシャ系の住民だけでなく、多くのユダヤ人集落も存在していた。その後、地域はイスラムの支配下に入り、11世紀ごろにはエジプトのイスラム政府から逃れてきたドゥルーズ派の人々がこの地に定住するようになった。

ドゥルーズの五色の旗とイスラエルの旗
マサダの村からヘルモン山脈を望む、奥に見えるのはマジデル・シャムス村

ゴラン高原のドゥルーズ派

ドゥルーズ派は、イスラムのシーア派イスマイール派から分離した宗教グループで、最盛期は10世紀、エジプトのシーア派政権ファーティマ朝の保護を受けた時期だった。彼らの思想には、イスラム神学だけでなく、グノーシス主義や新プラトン主義、その他のギリシャ哲学の要素が取り入れられており、輪廻転生の考え方も含まれている。この輪廻転生の思想が要因となり、11世紀にイスラム世界で異端とされ迫害を受けた。エジプトを離れたドゥルーズ派は、シリア、レバノン、イスラエル、ヨルダンの山岳地域に避難し定住するようになった。

現在、ドゥルーズの人口が最も多いのはシリアで約60万人おり、主に南部のヘルモン山脈沿いとドゥルーズ山地域に住んでいる。レバノンにはベッカー高原周辺に約25万人、イスラエルには地中海沿いのカルメル山とレバノン国境沿いの山岳地帯に約15万人、ヨルダンには約2万人が居住している。さらに、海外に移住したドゥルーズのコミュニティもあり、全世界で約100~150万人の人口と推定されている。1948年にイスラエルが建国された際、カルメル山地域などイスラエル領土になった地域に住むドゥルーズはイスラエル国民となった。ドゥルーズ派は自国の建設を求めず、その土地の支配勢力に従順とされている。このためユダヤ人国民と同様に徴兵制度の義務も受け入れた。

1967年、第3次中東戦争(6日間戦争)が勃発。エジプト、シリア、ヨルダン、イラクがイスラエルに侵攻し6日間の戦闘の末、停戦が成立。ゴラン高原内に北から南へ走るラカダ川沿いにシリアとの停戦ラインが引かれた。この結果、西側の1,800km²がイスラエルに占領され、ヘルモン山麓にあった4つのドゥルーズ村がイスラエル支配下に置かれた。

その後、1973年に再びシリアとエジプトがユダヤ教の大贖罪日「ヨム・キプール」に奇襲攻撃を仕掛け、第4次中東戦争が勃発。この戦争はイスラエルにとって独立戦争以来、最も死傷者の多い戦争(約2,500人が戦死、約300人が捕虜)となったが、それでも戦況を持ち直し、3週間後には境界線を再び1967年の停戦ラインに戻した。この戦争を受け、1974年に国連は非武装地帯(266km²)を設け、UNDOF(国連兵力引き離し監視軍)が駐屯して監視を行うこととなった。日本の自衛隊が初めてPKO活動として派遣されたのも、このUNDOF任地である。この非武装地帯内にはいくつかのドゥルーズ村が含まれており、ヘルモン山脈沿いのハダル村もその一つだ。

2012年のシリア内戦が始まるまで、ゴラン高原の停戦ラインは戦闘のない静かな紛争地域だった。しかし、イスラエル側の土地にはシリア時代に埋められた地雷が残されており、大規模な土地開発は進んでいない。現在のイスラエル側ゴラン高原には、ヘルモン山麓の4つのドゥルーズ村(マジデル・シャムス、マサダ、エイン・ケニヤ、ブカタ)に約2万人が住むほか、32のユダヤ人入植村があり、その人口は約2万人強に達している。ゴラン高原の住民構成は、ドゥルーズとユダヤ人がほぼ半々となっている。

マジデル・シャムス村の広場にあるSultan al-Atrashの銅像

アサド政権の誕生

第一次世界大戦後、オスマン帝国が解体され、東地中海地域は委任統治領に分割された。現在のレバノンとシリアはフランスの統治下に置かれた。フランスはその委任統治領を宗教や民族ごとに分割して地域を管理した。しかし、ダマスカスを中心とするアラブ・ナショナリストたちは統一アラブ国家の独立を求めており、フランスはその動きを抑えるために分割政策を採用したのだ。

この分割政策に反発し、1925年に「シリア大反乱」が勃発。その最初の火付け役となったのが、ドゥルーズ山の指導者スルタン・アル=アトラッシュだった。彼の銅像は現在もマジデル・シャムスの広場に立ち、その功績を称えている。

その後、1934年にフランスとトルコ共和国の間でサンジャク・アレクサンドリア(現イスケンデルン)がトルコ領となり、レバノンは1943年に独立、シリアは長いプロセスを経て、1946年4月にフランスから完全独立を果たし、シリア共和国となった。当時のシリアには、アラブ・イスラム(スンニー派、アラウィ派)、アラブ・キリスト教(カトリック、オーソドックス)、ユダヤ人、ドゥルーズ、ヤジディなど多様な民族・宗教グループが共存していた。

ちなみに、現在のシリア暫定政府が掲げる旗は、この時代のシリアの旗に由来している。

フランス委任統治下の各グループに分けた自治区

シリアは1970年にアサド政権が成立するまで、政権が安定せず、度重なるクーデターが繰り返された。1947年、国連でパレスチナ分割決議が採択されると、周辺のアラブ国家はイスラエルの建国に反対し攻撃を開始した。新生アラブ・ナショナリスト国家シリアもこの戦争に参加したが、結果はアラブ軍の敗北。パレスチナの一部領土が失われ、ガザ回廊はエジプト、ヨルダン川西岸の山岳地域はヨルダン・ハシミテ王国が占領した。シリア自身の領土は失われなかったものの、成果も得られず、その結果クーデターによる政権交代が発生した。

1956年のスエズ動乱(第2次中東戦争)では、ソ連がアラブ諸国に接近し、シリアにも社会主義思想が浸透。これが後のバース党の基礎を築いた。1958年、シリアはエジプトのナセル政権と連合しアラブ連合共和国を形成したが、これに反発したバース党が1963年にクーデターを起こし、一党独裁体制を構築。秘密警察を通じて社会を支配する体制が整えられた。

19世紀から20世紀にかけて中東アラブ諸国では近代化が進み、軍の強化とともに少数派の権利もある程度認められるようになった。それまで異端とされていた人々や異教徒も法的な平等を得つつあり、社会主義や軍事奉公が社会で成功する近道となった。エジプトのナセル、イラクのサダム・フセイン、シリアのハフェーズ・アサドはいずれも軍出身で、クーデターを通じて政権の中枢に上り詰めた人々だ。

1967年の6日間戦争(第3次中東戦争)は、シリアに初めて大きな打撃を与えた。ゴラン高原とヘルモン山脈の一部を失ったことで、シリアは軍事的優位を失い、イスラエルの安全保障が大きく向上した。イスラエル国内では、この勝利を支えた背景に、スパイとして送り込まれたエリ・コーヘン(1961–65)の功績が称えられている。特に、ゴラン高原に関する情報は戦争の行方を左右した。コーヘンは1965年にスパイ容疑で捕まりダマスカスで公開処刑された。(ネットフリックスでサーシャ・バロン・コーヘン主演でドラマ化された)

戦争の敗北後、シリア国内で政府内部の対立が激化し、1970年軍事大臣だったハフェーズ・アサドがクーデターで権力を掌握。彼はバース党の独裁体制の上に、少数派アラウィ派出身の縁故政府を築き、「アサド王国」ともとれる体制を確立した。反対派への弾圧は容赦なく、1982年にはモスレム同胞団を弾圧するため、1万~4万人の市民が犠牲となったハマー虐殺が実行された。

当初、ハフェーズは長男バーセルを後継者に据える予定だったが、彼の事故死により、次男のバシャルを後継者に指名。バシャルは歯科医としてロンドンで暮らして政治経験のなかったバシャルは、2000年父の死後に34歳で大統領に就任した。

ハフェス・アサド一家、後ろの左から二番目がバシャル、真ん中は長男のバーセル

シリアとゴラン高原のドゥルーズの関係

1967年からイスラエルが実効支配することになったゴラン高原の住民であるドゥルーズは、本来シリア市民であり、シリアの独立運動にも深く関わっていた。また、シリアに存在するドゥルーズ村とは親戚や親族関係があるため、シリアから分断されることは当初、感情的に受け入れがたいものであった。戦争後、イスラエルとアラブ諸国の間で「平和と土地の交換」は実現せず、1973年にはエジプトとシリアによる奇襲攻撃を契機にヨム・キプール戦争が勃発した。イスラエル側も大きな被害を受けたが以前の停戦ラインを保持した。そして国連安全保障理事会決議338号に基づき、非武装地帯を含む停戦ラインが設定され、イスラエル・シリア間の境界線が固定化された。

1981年、イスラエル国会はゴラン高原法を可決し、この地域にイスラエルの法律、管轄権、行政を正式に適用した。同時に、この地域に居住するドゥルーズ住民には希望すればイスラエル国籍が提供されることとなったが、大多数の住民はそれを拒否し、シリアとの文化的・家族的なつながりを優先する道を選んだ。国際社会は国連安全保障理事会決議497号を通じて、ゴラン高原法を「無効であり、国際法上の効力を有しない」とし、イスラエルにその決定を撤回するよう要求した。

シリア時代の人工分布
1967年以降イスラエル実効支配の人工分布

ドゥルーズ派の人々は独立した国家は求めない

ゴラン高原のドゥルーズが自らの運命をシリアからイスラエルへとシフトし始めたのは、2011年に始まったシリア内戦が契機と考えられる。それ以前にも、1981年のゴラン高原法に基づきイスラエル国籍を取得する人はいたが、当時は少数派で、取得した人々はドゥルーズ社会内で嫌がらせを受けることもあったようだ。

私が初めてゴラン高原を訪れた1990年代、ドゥルーズはまだシリアへの忠誠を誓っていた記憶がある。当時アサド政権はゴラン高原のドゥルーズがイスラエル社会に同化しないよう、高校卒業後にダマスカスの大学で学べるよう受け入れていた。シリアに留学した経験者は、シリア市民が「占領地ゴラン高原から来た人々」として彼らを温かく迎え入れてくれたことを懐かしそうに語っている。また、アサド政権自体が少数派であるアラウィ派であり、他の少数派であるドゥルーズやキリスト教徒にも比較的寛容だったと思われる。ただし、ユダヤ人は例外で、1901年に約30万人いたシリアのユダヤ人は、現在ほぼ皆無である。(2002年にダマスカスを訪問した際、年老いた3家族だけが残っていたが、そのうち1家族は間もなく米国に移住すると話していた。また、シナゴーグの管理をしていた家族はその後、死亡したと報じられている。)

一方、シリア側に嫁いだドゥルーズの女性たちは、再び家族に会えない覚悟を持って国境を越えていった。たった数百メートルの国境を渡るにも複雑な手続きが必要だったのだ。(この状況は映画『シリアの花嫁』にも描かれている。)

彼らがイスラエル国籍を積極的に認め、取得し始めたのは2012年のシリア内戦以降だと考えられる。その背景には、以下の2つの理由が挙げられる。
・ 1つ目は、イスラエル占領後に生まれた世代が大半を占めるようになり、イスラエル人の隣人として平和に共存する日常を体験し、イスラエルへの違和感が薄れたことだ。イスラエル国籍を持つカルメル山のドゥルーズとともに、彼らのアイデンティティや文化はイスラエルでも保護されている。
・ 2つ目は、内戦によるシリア国家の崩壊を目の当たりにしたことだ。特に2014年にはイスラム国が台頭し、シリア南部にジハーディストのヌスラ戦線が進出したとの情報が伝えられた。その際、ドゥルーズはシリアにいる親族を守るためにイスラエル政府に支援を求めることもあった。自分たちを保護できる政府はイスラエルと確信したようだ。

さらにイスラエル国家の庇護を本格的に求める動きが顕著になったのは、昨年(2023年)の10月7日以降だ。テロ組織ハマスがイスラエル領内へ奇襲攻撃を行ったが、本来これはテロ組織ヒズボラが北部国境から行う予定だった攻撃計画であると言われていた。ハマスの奇襲では、そこにいたアラブ系パレスチナ人も殺害や拉致の対象となった。イスラム・テロ組織にとってユダヤ人と共にいる人々はすべて「裏切り者」と見なされるのだ。外国人労働者も同じ運命を辿った。

実は一般のイスラム・スンニー派の人々は、ドゥルーズ派をアラウィ派と同様に異端視しイスラム教徒とは見なしていない。ある時、東エルサレムのイスラム系パレスチナ人ドライバーを雇った日本の新聞記者の手伝いでゴラン高原を取材した際の出来事である。ユダヤ人の間で人気のドゥルーズ・レストランで昼食をとろうと入ったところ、一緒にいたドライバーが「自分はここでは食事をしない」と言い、食べることを拒否した。その理由を尋ねると「イスラムから見れば彼らは不浄だから」という答えが返ってきた。確かに、ドゥルーズ派はラマダンをはじめとするイスラムの教義に独自の変更を加えているが、彼らの出す料理は地域の他のアラブ人とほとんど変わらない味付けが多いため、私は少し驚いた。

マジデル・シャムス村:90年代まではここからシリア側の親族と叫びながら連絡を取っていた

10月7日以降のドゥルーズ・コミュニティ

2023年10月8日以降、テロ組織ハマスに連帯したヒズボラもイスラエルへの攻撃を開始した。国境付近に住むユダヤ人たちは避難を始め、政府も後に国境から5km以内の地域住民に避難を要請した。しかしゴラン高原にある4つのドゥルーズ村の住民たちと一つのアラウィ派村の住民は避難しなかった。ハマスの奇襲にショックを受け、ヒズボラの精鋭部隊「ラドワン部隊」の攻撃を恐れながらも、「生まれ故郷を離れない」という信念のもと留まり続けた。イスラエル国防軍(IDF)は北部国境を守るため、避難要請を出した村々にも少数の自警団を残して警備を強化するとともに、これら4つのドゥルーズ村にも武器を供給し自警団を設置した。ドゥルーズの住民たちはIDFの指揮下で村を守る役割を担った。

イスラエル国籍を持つドゥルーズはIDFへの兵役義務があるが、ゴラン高原のドゥルーズはシリアとの関係を考慮して兵役を免除されていた。そのためこの動きは前例のない試みだった。2023年12月、2つのドゥルーズ村の村長にこの件について尋ねたところ、「住民の安全を守るための必要な措置」として受け入れており、IDFと完全に協力して村民の人選を進めていると語った。当時すでにヒズボラからのロケット攻撃やドローン爆弾が飛来しており、村人たちは不安の中で生活していた。村長たちは壊れたドローンのモーター部分を見せながら、状況の緊迫ぶりを説明してくれた。

ヒズボラから発射された自爆ドローンの残骸、農地に落ちてたそうだ

2024年2月以降、ハマスのガザよりも南レバノンのヒズボラからの攻撃が激化した。7月には今回の戦争で最大の民間人被害がゴラン高原のマジデル・シャムス村で発生した。休日の夕方、村のサッカー場で練習していた子どもたちのもとにミサイルが直撃し、12人の子どもが死亡、数十人が負傷した。この出来事について、マジデル・シャムスの村長ドラン・アブ=サラ氏が語った。彼は現場に最初に到着し、知人の子どもたちの遺体が散乱する光景を目の当たりにして、計り知れない無力感を感じたという。しかし、村長として村人たちのショックに対応する責任もあった。彼は心的外傷を抱えた被害者やその家族に寄り添い、治療やケアについて話し合いを重ねた。

「住民はこの困難な惨事に責任感と成熟度、そして愛情を持って立ち向かいました。そして復讐心を抑えることに成功したのです」とアブ=サラ氏は語る。中東でしばしば見られる「復讐の連鎖」ではなく、村民たちは知的に成熟した判断を下し、悲劇の連鎖を断ち切る道を選んだ。彼は「その姿勢を誇りに思う」と述べた。

ダマスカス鋼略後、最初の金曜礼拝を行うウマルモスクでのアブ・ジョラニ

ゴラン高原のドゥルーズがみるシリア革命

11月27日のヒズボラとの停戦によってミサイルの恐怖から解放されたものの、ゴラン高原のドゥルーズは今度はシリアで起きた革命に起因する新たな不安を抱えている。それは今後シリアにどのような政権が誕生するかという点だ。イスラム国やアルカイダと過去に関係のあったヌスラ聖戦関連の人物が暫定政権や将来の政府を率いる可能性があり、このことに人々は警戒感を強めている。

革命後、非武装地帯(UNDOFが管理する地域)にあるハダール村で住民会議が行われその様子がSNSで話題になった。この会議では、イスラエルに庇護を求めるべきか、それともシリアの暫定政府に従うべきかが議論されていた。この状況は、住民たちが抱く不安と警戒心を象徴していると言える。村長は不透明なこの状況を踏まえ、判断を村民に委ねたようだ。

現在、シリアの暫定政府は少数派の地位を認め、統一されたシリア国家の基盤を守ると表明している。しかしイスラエル側に住むほぼ全てのドゥルーズは、その言葉を完全には信じていない。12月3日、国連総会でイスラエルにシリア占領地(ゴラン高原)からの撤退を求める決議が出された。この件についてエイン・ケニヤ村の村長に尋ねたところ、彼は「私たちはイスラエルと共に生きる」ときっぱり述べた。そして、シリアの革命を成功させたのは「ムジャヒディーン」と呼ばれるイスラム原理主義者たちだと説明した。

同様に、マジデル・シャムス村の村長も、村民の中にイスラエル国籍を取得しようとする希望者が増えていることを認めた。彼自身はイスラエル国籍を取得した第一世代であり、イスラエル国民として生きることに疑問の余地はないと語った。また、将来、仮にシリアにドゥルーズ自治区が設立される話が出たとしても、それを望む人は少ないだろうと話した。イスラエル国籍を取得しようとする動きはそのような動きに反対する表れだと説明してくれた。

私が話を聞いたドゥルーズの人々に共通していたのは、ヒズボラとの停戦を歓迎する一方で、本来アサド政権を支持していた彼らも、シリア市民に対するアサド政権の行為が明るみになったことで、そのような政権の崩壊を歓迎していることだった。そして現在、アサド政権に対して否定的な見方を持つようになっている。しかし、彼らはシリア国民がアサド政権から解放されたことを喜びながらも、シリアの今後の方向性については依然として不安を抱いている。

また、彼らが望む将来像は、シリア市民が選挙によって選出した「公正で民主的な」政府の誕生とイスラエルとの国交正常化である。一方で、ドゥルーズ国家の建設を望んでいない点も共通していた。そして、彼らが最後に付け加えたのは、「私はシリア市民の判断を信じる」という言葉だった。13年間にわたる悲惨な内戦の後、多くの市民が犠牲を払いつつ勝ち取った国家に対し正しい判断を下してくれるだろうと期待していた。

トルコの思惑

現在、日本で川口市のクルド人が難民申請を行っている背景には、トルコによる弾圧がある。クルド人はイスラム・スンニー派でありながら、民族的にはアラブやトルコと異なる独自の民族で、独自の言語(ペルシア語に近いと言われる)を持つ。彼らはイラク北部、トルコ東部、シリア北東部に跨る地域に住み、オスマン帝国時代には自治が認められていたが、1917年の帝国崩壊後、領土が分割され独立を果たせなかった。これが現在のクルド人問題の出発点である。

トルコはクルド人のアイデンティティを否定し、1980年代からPKK(クルディスタン労働者党)による武装闘争が始まった。湾岸戦争後のイラク北部にはクルド自治区が設立され、2000年代にはトルコの融和政策で和平交渉が進んだが、近年の中東情勢の変化により、クルド人独立運動が再び活発化。トルコのエルドアン政権はこれを警戒し、シリア北部のクルド地域への攻撃を再開している。

トルコの革命シリア政策には、クルド人への弾圧とシリア難民の帰還促進が含まれ、さらにはシリア・レバノンへの影響力拡大も狙いと見られる。暫定シリア政府に最初に大使館を開設したのはトルコとカタールであり、トルコはシリア反体制派への支援を積極的に進めてきた。一方でクルド地域への攻撃を継続している。

暫定シリア政府は国内の分裂を警戒し、アサド政権の残党やクルド人の独立運動に対して慎重な姿勢を取っている。一方で、トルコはクルド系のシリア民主軍(SDF)と、シリア暫定政府と協力関係にあるシリア国民軍(SNA)との対立を支援している。現在のシリア暫定政府にとって、これらの状況からイスラエル問題やゴラン高原の領土問題は優先事項ではない。しかし「エルサレムの奪回」といった過激な発言が、一部のムジャヒディンやトルコ側から発信されていることは注目に値する。

ヘルモン山脈と非武装緩衝地域


https://www.middleeastmonitor.com/20241224-erdogan-israel-seeks-to-exploit-syrias-revolution/


いいなと思ったら応援しよう!

中島ヤスミン
皆様のサポートは大変励みになります。一般報道ではでない、イスラエルとパレスチナの情報をお届けします