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ハマス指導者、ヤヒヤ・シンワルとの一年

ユダヤ暦5785年(西暦2024年)、仮庵祭(スコット)第一日目、人々がテント(スカ)の中で祝日を過ごしていた午後15:45に最初の速報が入った。

「IDFはハマス幹部ヤヒヤ・シンワルを排除した可能性」があり、現在確認中という一報だ。遺体の写真と生前の写真が比べら、歯形の写真も公開された。約1時間半後、指紋、DNAにより完全に本人と確認された。

このニュースは戦争の大きな転換期になるかもしれない。去年(2023年)10月7日、仮庵祭(スコット)第8日目シムハット・トーラの早朝、ハマスの悪夢が始まった。それは”アル・アクサ洪水”と呼ばれる軍事作戦が開始された日だ。6000人以上の戦闘員と協力してガザ住民がイスラエル領土内に侵入し、1200人の子供・女性を含んだ民間人をレイプし、残酷な方法で殺害した。そして赤ん坊・女性を含んだ251人の人々をガザに拉致していった。

この残忍な「10月7日の虐殺」を計画した人物が、このヤヒヤ・シンワルだった。当時ハマス軍事部トップで実質上ガザのハマス組織指導者だった。この作戦を外国にいるハマス幹部に見せるため、当時戦闘員たちの体には小型カメラが取り付けられ、ソーシャルメディアを通して中継されていた。それはハマス幹部だけでなく、イスラエル国内でも多くの人々が目撃し、家族たちが被害者の運命を目撃した。
その後ガザに連れて行かれた拉致被害者はガザの民衆から分捕り品として好奇の目と虐待が待っていた。

イスラエル国防軍(IDF)も即座に反撃を開始した。ハマスとの戦いを初めて「戦争」と呼んだ。そして目標に、❶拉致被害者の奪回、❷ハマスの壊滅を掲げた。その後10月27日には10年ぶりにIDF戦車部隊を投入してガザ地上戦を開始した。この時からガザの崩壊が始まった。ガザのキャッチフレーズ「天井のない監獄」はあくまでも世界から数十億ドルの援助金を集めるためで(1)実際のガザは街並みは美しく飾られ、海沿いのカフェやホテルなど豪華な建物や、ランドマークとなるモスクが建てられ、ハマス幹部などが住む地域は豪華な民家が立ち並ぶ、ちょっとした近代都市だった。それは実際ガザに入ったIDF兵士を驚かせるほどだ。(2)

それらが、ヤヒヤ・シンワルによって計画された”アル・アクサ洪水”によりすべて破壊された。海沿いの綺麗に飾られた大通りやランドマークのモスクだけでなく、人々の住む豪華アパートが破壊された。そして住民は、戦闘地域となる場所から何度もIDFの避難勧告に従って、移動しこの一年、テント暮らしを余儀なくされた。

シンワルは10月10日に自宅のあるハーンユニスから家族と共にステテコ姿でトンネルに逃げ込んだ。実際拉致された人々は、トンネル内でシンワルの訪問を受けたと証言している(3)彼らにヘブライ語で「身の安全」を約束したそうだ。

10月10日のシンワルの姿、家族と共にトンネルに逃げ込む

11月末に一度だけ行われた拉致被害者の解放(85名)とIDFにより奪回された7名だけが生きてイスラエルの地に戻ってた以外は27名は遺体で戻ってきている。現在まだガザに拉致されている101名のうち約30名もすでに亡くなっていると言われている。シンワルの最後の形跡は、8月末にラファのトンネル内で殺害された6名の拉致被害者がいた場所だった。そこにヤヒヤ・シンワルのDNAの形跡があった。シンワルは自分の周りに拉致被害者を人間の盾として使っていると言われていたが、この6名がそうだったのだろう。この6名は国内外のメディアで家族が解放を訴えていた人物たちだ。シンワルはIDFが迫ったことでこの6名の拉致被害者を殺害して逃亡した。そしてその直後「今後IDFがやってきたら拉致被害者は容赦なく殺害する」との声明をハマスは出した。この6名の死亡はイスラエル社会に大きなインパクトを与えた。

6名が殺されたトンネルにヤヒヤ・シンワルがいた形跡

7月31日にハマス政治局のトップ、イスマイール・ハニヤがテヘランで暗殺されると、シンワルは政治・軍事ともにハマスの完全指導者の地位についた。これにより今後の拉致交渉解放は、シンワルの意向によることになった。

しかしその後シンワルの行方はわからなくなった。死亡説やガザ域外への逃亡、女装して避難民の中に紛れているなどの噂もあった。10月初めにイランが180発のロケット攻撃をイスラエルに行った直後、シンワルの消息が再び囁かれ出した。彼は交渉仲介のカタールに連絡してたとか、また交渉要求に自身の保護も入ったなどだ(4)

しかし彼の最期は惨めなものだった。2名のボディガードと一緒にラファの民家に隠れていた。そこにIDFはシンワルがいることは知らず、民家からの発砲に対して戦車で砲撃した。その後ドローンカメラで内部を確認する映像には、灰色の薄汚い格好をした人物が、一人で赤いソファに座り、この偵察のドローンに向かって棒を投げている。これがヤヒヤ・シンワルの最後の映像と言われている。

2021年の紛争停戦直後、
シンワルは地下のバンカーから出て、
自宅前で堂々と座る様子
2024年遺体で運び出されるシンワル

私はこの戦争が始まってから、なぜハマスそしてシンワルはこの10月7日の”アル・アクサ洪水”作戦を行ったのだろう?彼の目的はなんだろう?と考えていた。これだけの大惨事を起こすその代償は一体何なのか?と。

一般には「サウジアラビアとイスラエルの国交正常化を阻止して、パレスチナ問題を再び世界の注目にさせるため」というものだ。世界の地域紛争で、パレスチナ問題が辺境地域紛争になれば、世界からの援助金が目減りする。実際米国のトランプ政権時代(2017−2021)、最大の援助国家アメリカがパレスチナの代表的援助機関UNRWAの援助金を減らしたことで、多くの職員が解雇された。ガザには13,000人のUNRWA職員がいる。それらに人々の給料をカバーできなくなった。

しかし私にはこの説明はピッタリこない。この理由で大量の251名もの拉致をする必要があるのだろうか?しかも老人から幼児まで、国籍もイスラエル人だけではない。シンワルは1989年から2011年まで22年間イスラエルの刑務所に拘留されいた。彼は2名のIDF兵士を殺害したことで人生四回分の終身刑を受けていた。その刑務所から彼が出所できたのは、2006年にガザに誘拐されたIDF兵士ギラッド・シャリッドの解放との交換だった。パレスチナ人1026人受刑者が釈放され、その一人だった。彼は1026人の中で最もハイランク(重罪者)の受刑者だった。イスラエル政府がこの時他の受刑者ではなくヤヒヤ・シンワルを釈放した理由は、彼の主な活動がイスラエル人への攻撃よりもパレスチナ人に対するものだったことから危険性のレベルが低いと判断したようだ。この時彼は他の受刑者たちにも自分と同じように釈放すると約束したそうだ。これが今回の大量の拉致とホロコーストの経験をもつイスラエル人たちを残忍に虐殺した理由ではないのか?

実際に一回だけ成功した拉致被害者の解放で彼らが得たものは、150人の受刑者釈放だった。その後の交渉でも一人の拉致被害者に対して10人の受刑者(終身刑を含む)を求めていた。

ヤヒヤ・イブラヒーム・ハッサン・シンワルは、エジプト支配時代のガザ回廊南部のハーン・ユニス難民キャンプで1962年生まれでそこで育った。両親はイスラエル建国に伴って1948年にアシュケロンから避難した難民家族だ。彼が5歳の時、1967年の6日間戦争で、ガザはエジプトからイスラエルの占領下に置かれた。社会が再び大きく変化した。その後、難民キャンプ内にあるUNRWA学校で初等教育を受け、ガザのイスラム大学でアラビア語専攻で学位習得した。当時のガザ、イスラム大学はエジプトで禁止されていたモスレム同胞団の拠点になり、ハマスはその配下で誕生している。学生時代ヤヒヤは難民キャンプ内の生活向上のため物品調達係を行っており、それがハマスとの繋がりの始まりのようだ。そして弟のムハマッドはハマス軍事部に入った。

ヤヒヤが最初にイスラエル刑務所に入所したのは1982年、罪状は破壊的活動で20歳の時だ。1985年再び逮捕、1987年にはパレスチナ内部のイスラエル協力者摘発部隊、ハマス”警察”を創設し、”ハーンユニスの肉屋”と呼ばれようになるまで、多くのパレスチナ人を殺した。1989年イスラエル兵2名を誘拐しようとして殺害し、4名のパレスチナ人も同時にイスラエル協力者として殺した。これが彼が終身刑を喰らった理由だ。彼の主なハマス内部での活動は、イスラエルとの関係正常化を阻止することだ。彼の手によって数十人のパレスチナ人が殺された。当時ヤヒヤ・シンワルを120時間以上かけて取り調べたイスラエル治安局のミハ・コビによると、ヤヒヤは敬虔なイスラム教徒でコーランの句は全て暗記しており賢い。しかし尋常でない冷血さを持ってる人物と評価している。ベテランの取調官でさえ、彼の非情さには恐怖を感じだようだ。

ヤヒヤ・シンワルは27歳から49歳まで人生をイスラエルの刑務所内で過ごした。ハマスが爆弾テロなどで知名度を上げていった90年代、彼は刑務所内からイスラエル協力者のパレスチナ人殺害を相変わらず指導をしていた。また刑務所内での人脈形成と、イスラエルの通信大学で教育を受け(6)当時イスラエルの歴史やイスラエルの政治体制、民主主義について学び、イスラエル人の性質を研究したようだ。

2004年、ヤヒヤ・シンワルは脳腫瘍を患い、イスラエル南部ベエル・シェバのソロカ病院で治療を受け腫瘍を取り除いた。この治療が行われなければ彼は致命傷だっただろう。(7・8)

ガザに戻ったヤヒヤ・シンワルは受刑者の中で最も刑期の重い人物の釈放として英雄として扱われ、その後ハマス内部での地位を上げていった。彼本来のパレスチナ人殺害手腕はその後も行われ、ハマス幹部を不適材人物をして告発し処刑した話は国連の人権委員会でも2021年に報告されている(9)現在その他の主要ハマス幹部たちが国外で暮らしているのも、ヤヒヤ・シンワルのこの手法に対して距離を置くためかもしれない。

そんなヤヒヤ・シンワルの死はとても呆気なかった。そしてこの1年の戦争で、ガザの死亡者数は、ハマス運営の保健省発表では4万人をこえる。その内1万8千人が戦闘員というのがIDFの見積もりだ。それ以外にもイスマイル・ハニヤをはじめハマス幹部のほとんどが暗殺された(29名)。さらに同盟関係のあるヒズボラの党首ハッサン・ナスララも死亡した。イランの革命防衛隊幹部も排除された。イスラエル側も760名以上の兵士がこの一年の戦争で戦死し、テロによって20名近くが死亡している。死亡者以外にも多くの人々が負傷し障害を残す体になった。ガザ住民、そしてイスラエル側のガザ近郊の住民や北部レバノン国境の住民がこの1年間自宅に戻れず避難生活を送っている。これが「アルアクサ洪水」の見返りだった。

亡くなったハマス幹部、その他29名

もしシンワルが、1年前に10月7日の”アル・アクサ洪水”を起こさなかったら、美しいガザの街はそのまま残り、誰も死なずに楽しい生活を送れたことだろう。この数年はイスラエル社会とパレスチナ人の接触も比較的安定していた。彼がもたらしたこの災いは、この一年を通してユダヤ人に再新されたトーラー(モーゼ五書)朗読の終盤に終結した。そしてあと6日間で完読するまでに残りの101名の拉致被害者の行方がわかるだろうか?彼らが無事家族のもとに戻ることで10月7日に始まったこの戦争は終結するはずだ。

また戦争が終結する前に本格的に考える必要があるのが「今後のガザの再建」だろう。ハマスはガザに美しい街並みは作った。しかし人々の心に彼らが作ったのは何だったか?

ハマスがカザを支配し始めた2006年から2007年までガザ地域内の反ハマス勢力だったパレスチナ自治政府の政党員は完全に排除された。その衝突が終了するとイスラエルに向かってロケットを打ち始めたのが2008年だ。その後彼らが世界から入る援助資金で作り上げた社会は「イスラエル攻撃のため」の要塞都市だった。それが彼らの人生のすべての目標だった。ヤヒヤ・シンワルはその寵児だったのかもしれない。「憎しみ」をイスラムという宗教で理論武装し、目的のためには限りなく冷酷に振る舞うように作られた人材だった。今後このような災いが起こらないためには、このような負の感情から住民を解き放つ努力を人々は知恵を尽くして「今後のガザの再建」を考えなければならない。そこにはイスラエルだけでなく世界が共に立ち向かう必要があるだろう。

国連人権委員会報告書
https://www.un.org/unispal/wp-content/uploads/2021/03/AHRC46NGO95_030321.pdf



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