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El Chalo, the Legend of Granada. 2

(見出し画像  https://youtu.be/RGWEI7wSxHQ より)


芸能者」の原点

先日、たまたま日本のフラメンコギター講師で、かつてスペインにギター留学していたという方のブログを読んでいたら、留学中に一時、お金が尽きそうになり、道端でギターを弾いて通行人から投げ銭を貰って食い繋いだことがあったという。その時の「乞食のような生活」を思い出すと、本当に惨めで恥ずかしかったと書かれていた。確かに外国で、生活するための金も無くなるというのはさぞ、心細かっただろうとは思う。でも、だからと言って道端で芸をして金を得たことをそこまで恥に思う必要はあるだろうかと思った。むしろ、そうやって外国から何かの芸を学びに来た若者が、その土地で幾らかでもその芸で稼ぐことが出来たのなら誇りに思って良いのではないか?

以前に見た映画、『サクロモンテの丘』では、ロマの老人たちがフラメンコについて「稼ぐために、自分を証明するために踊った」、「フラメンコは生きる糧だった」と語っている。それは単に「見せ物」として他人に見せて金を稼ぐ、という意味だけではなく(もちろん、それもある)世間からいくら蔑まれようと、自分たちにはこれがある、他の人々には真似のできない「この魂の表現方法がある」という誇りであり、自負だったような気がする。

サクロモンテの丘

https://www.uplink.co.jp/sacromonte/


それは今も同じなのだろう。投げ銭を貰っているからと言って、チャロとその仲間たちに卑屈な影はない。常に凛としている。他人を感動させ、その懐から幾ばくかの金を投げ出させるだけのものを自分たちは表現しているのだという自負があれば、必要以上に見物人に阿(おもね)る必要もないわけだ。

そもそも「大道で投げ銭」というのは芸能者の原点だろう。現在のテレビや映画に出てくる「芸能人」にはそれぞれ所属事務所があり、そこがテレビ局や興行主と契約して、テレビ局は番組のスポンサーが支払う広告料、興行主は観客が払ったチケットの売り上げという粗利の中から、それぞれ出演者にギャラを支払うわけだが(実際には「先払い」かも知れないが)元々は「芸をする人」を「見物する人」が見て「良かった」と思えば、(己の懐の許す範囲で)その場で銭を投げていた。そうした芸能者として一番シンプルでダイレクトなところでチャロたちは今も生きている。それを「恥ずかしい」と思うくらいなら、芸で身を立てようなどと思うべきではないだろう。

(それにしても芸能というものは常に差別され、貧しく生きる人々から生まれるのだろうか?日本の能や歌舞伎にしても、そもそもは「河原者、河原乞食」と蔑まれた人々の間から生まれた。現代のヒップホップダンスやラップにしてもスラムの若者たちの間から生まれたものだ。思えば食うや食わずの貧困の中にあっても、他者の心を捉えて止まないほどの何事かを生み出すことが出来るのだから人間の創造力は凄いものだと思う)

ロマたちの「演奏ユニット」の組み合わせは常時同じではなく、その時々で変わるらしく、だいたい二人〜五人くらいの範囲で、チャロと組むことのある人たちで言えば(ほとんど組むことのない別グループの人もいるようなので)七、八名くらいの人たちが入れ替わっているようだ。

場所による「棲み分け」みたいなものもあるようで、バイレ(踊り手)のいるグループのメンバーとチャロたち演奏のみの展望台グループのメンバーが一緒にやっていることは滅多になかった。(踊り手は正確には、バイラオーラ・女性 、バイラオール・男性と言うべきだが、日本語ではしばしば「バイレ(踊り)」という名詞で略されているようだ)

思えばMirador de San Nicolas(サン・ニコラス展望台)は最近でこそコロナの影響で人影もまばらになっていたようだが、本来、観光客でかなりごった返す場所らしい。踊りを見せるにはある程度のスペースがいるし、バイレはどうしても人目を引く。展望台自体はさほど広くもないし、人垣が出来ればせっかくの展望の邪魔になる。もしかしたら展望台では原則、踊り禁止のルールになっているのかもしれない。(時々、見物客らしい女性や男性が踊り出すことはあるが、皆、なかなか上手い)

一つだけ、以前よく見ていた踊り手のいるグループの人たちとチャロが展望台で共演している動画が見つかった。

(普段、カンテを歌う仲間の顔を見ている癖が抜けないのか、チャロは踊り手よりもカンテも歌う青いシャツのギタリスタの方をチラチラ見てしまうようだ。踊りに合わせるタイミングが掴めないのかもしれない。青いシャツの男性は他の動画で何度か見たことがあるのだが、バイレ〈踊り〉の伴奏ではベテランらしい。普段やらないこともあってチャロはバイレの伴奏はあまり得意ではないようだ)


フラメンコの発祥

放浪の民と言われるロマだが、グラナダのロマは割と早くからサクロモンテに定住していたようだ。彼らは石灰岩の丘に古い時代に掘られた洞窟に住みついて、彼等の伝統職である籠編み職人や鍛冶屋や鋳掛屋、水売りや花売りとして生計を立てていた。そしてそこには、モリスコと呼ばれて、やはり差別を受けていたアルハンブラの遺構を残したアラブ系住民の子孫や、セファルディと呼ばれるイベリア半島に住むユダヤ人たちも住んでいて、其々の民族の持っていた伝統音楽や舞踊が融合してフラメンコの原形が形成されて行ったと言われている。そして19世紀の初め頃、当時のスペイン政府が自国を「ヨーロッパの中の南国」として保養地、観光地として宣伝することを目論み、その一環としてサクロモンテのジプシーたちを呼んで外国からの賓客に歌や踊りを披露させたことがその後のショービジネスとしてのフラメンコの発展につながったという。

20世紀の前半にはバルセロナ生まれのカルメン・アマヤ(ダンサー、歌手、女優)という大スターも出たことで、フラメンコの名は一気に世界に広まった。

カルメン・アマヤ(アマジャ)
https://www.audio-visual-trivia.com/2007/02/carmen-amaya/

(現在「フラメンコ」と呼ばれているものの中には必ずしもロマの踊りばかりでなく、地元スペインの農民の踊りから発展したセビジャーナスとか、他にも起源があるらしいのだが、そこまではよく調べていないので後の課題にしたい)

これは(↓)1960年代のサクロモンテ。ロマたちの生活は貧しいが、幼い子供たちまでが大人顔負けにフラメンコを踊っている。


ロマの生活と音楽

「ジプシー」というと、かつて私もそう思っていたように、みなフラメンコのような芸能で生計を立てているような印象があるが、むしろそれは例外で、多くの人は貧しいなりにも様々な職を持っていた。鍛冶屋や鋳掛屋などの金属加工の技術を持った職人だったり、葡萄園の季節労働者であったり、馬の扱いが巧みなのでその繁殖や売買に携わったり、それから、かつて“日本のジプシー”とも呼ばれた「サンカ」の人々のように籠や笊を編んで、農産物と物々交換したりして生活して来たらしい。

これは(↓)私が以前よく聴いていたAndo Dromというハンガリーのロマのバンドの歌の動画だが、数十年前の実際のロマの生活が映し出されているようだ。

草原に停められたトレーラーハウスの側で少年たちがバク転をして遊んでいる。女がトレーラーハウスの中を箒で掃き清め、男たちが手際よく籠を編んでいる。そこへ猟銃を持った二人の地元民とおぼしき男たちがやって来て何事か言って来たのでキャンプ地を立ち去らなければならなくなってしまったらしい。動画の中で馬が引くのはトレーラーハウスだが、哀愁を帯びたメロディの中にも軽やかに聴こえる4拍子の拍の音は、かつては幌馬車を引いていた馬の蹄の音のようにも聞こえる。

(これより少し前の時代まではロマたちは昔ながらの「幌馬車」で移動生活をしていたらしいが、この当時はこのようなトレーラーハウスを馬に引かせていたようだ。その後はいわゆるファミリーカーやキャンピングカーになって行ったらしい)

途中で小さな子供達がトレーラーハウスから降りて野の花を摘むシーンがあり、大人がそれを束ねたものを少年が道端に張られた有刺鉄線に逆さまに刺して去って行く。後から来るかもしれない仲間たちへの道標なのだろうか。

ショーとして外部の人間に見せたりはしなくても、どの地方に住むロマたちも歌や踊り好きで、日常的に歌や踊りを楽しみ、楽器の演奏にも巧みな人が多かったようだ。賤視されながらも優れた音楽性を持っていた彼らは地元の民謡などにも大きな影響を与え、特にロシア民謡や、サラサーテの「ツィゴイネルワイゼン」の元になったハンガリー民謡にはロマの影響が大きいという。

(↑)ロシアでは旧ソ連時代に国内のロマが集められて「ロメン劇場」という国立の劇場が作られ、彼らの歌や踊りの公演が行われたり、映画も何本も作られたという。(中には国際的に高い評価を得たものもあったようだ)その中の一本ではないかと思われる。

(↑)はTadashi Igarashiさんという日本人の方が投稿されたルーマニアのロマの少女の踊り。腰の動かし方はベリーダンスに似ているが手の動きはフラメンコに似ている。この子は特に上手いようだが家族みんなでも踊る。(↓)

これ(↓)はルーマニアのロマの男性たちの踊りだがフラメンコのバイラオール(男性の踊り手)たちもよくやるボディパーカッションも見られる。


差別と貧困の中で

ナチスによって第二次大戦中にユダヤ人に行われたホロコーストは有名だが、それと並んでロマたちもナチスによる排除の対象になり、ナチスの影響が及んだ国々では多数が強制収容所に連行されて命を落としたという。しかし、元々ユダヤ人と違って定住者は少なかったこと、文字の読み書きができる者も殆どいなかったり、強固な組織を持っていなかったことなどで大戦後も犠牲者の総数さえ分からず、補償も受けられないままになったという。(スペインは内戦で疲弊していた後だったので第二次大戦にはほとんど参戦せず、ナチスの影響もあまりなかったのでその迫害からは免れたようだ)

ちなみに近年のEU統合では欧州内での移動制限が緩和されたため、経済的に貧しい東欧から豊かな西欧を目指す移民の流出が問題なったが、特にルーマニアから多くのロマがイタリアやスペインへ押し寄せて問題になっているらしい。彼らは郊外にキャンプを形成し、都市部に現れては、主に女性たちが道ゆく人に物乞いやたかり行為をしたり、子供たちを使ってスリや置き引きをさせたりしているという。(特に警戒心の少ない日本からの観光旅行者は狙われるそうだ)なので現地の市民たちからは極端に嫌われて警察や市当局から厳しい取り締まりを受けたり排除されたりしているらしい。

(↓)これは13年前の日本の報道番組だが、その中で英国BBCが作ったこの問題についての特番を放映している。

排斥されるロマの人々

ルーマニアではかつての王国時代に、一般人が勝手にロマを捕えて奴隷にして良いという法律があり、それが今に続くロマへの根強い差別とその貧困につながっているという。(ルーマニア政府はこれを否定しているが)そしてその差別と貧困から逃れようと「豊かな西欧」にやってきたわけだが、初等教育も満足に受けていない彼等には、そこでまともに働けるようなスキルもないので犯罪に走ってしまうらしい。

もちろん、スペインで長年に渡って伝統的な「観光産業」に従事して来たチャロのようなロマたちはそんな迷惑行為や犯罪行為に手を染めるはずもないのだが、しかし、外国から来た「同胞」たちのそんな有様を目にしてはかなり困惑しているのではないかと少し気になった。

ロマの人々の発祥はインドだと昔からの伝承でも言われていた通り、彼等の遺伝子を解析した結果、インドの原住民だったトラヴィダ人と共通の遺伝子を今も多くが残しているという。トラヴィダ人は、これも最近の研究で、あの世界四大文明の一つであるインダス文明の担い手であったことも判明している人々だが、現在のインドではタミル人がその直系の子孫だと言われている。特徴として後から来た北方系のアーリア人と比べると、肌の色が黒く「背が低い割には手足が長い」という特徴を持っている。(チャロの特徴にも合う話だ)

十世紀以降(一説では六世紀から七世紀ごろからとも)そのトラヴィダ人だったロマの祖先達が、なぜインドを旅立って放浪の旅に出たのかははっきりはしていないらしい。一族郎党で故郷を捨てて旅に出ると言ったら、戦乱や飢饉や疫病でもあって、それから逃れるためというのが、まず考えられるだろう。実際、そんなことがまったく無かったわけではないらしいのだが、しかし、かなりの数の集団が何世紀もの長期に渡って次々と故郷を捨て、西を目指した理由は今もわかってはいないのだ。

一口にロマ(ジプシー)と言っても、はるばるインドから移動してきた時期やそのルートによっても其々文化も異なり、幾つもの種族に分かれているらしい。彼ら独自の言語と言われるロマ語にも方言のような違いがあって、遠い系統の者同士では話もできないという。特にスペインのロマに関しては、定住が早かったこともあってそのロマ語も廃れ、ほとんどの人が話すこともできないようだ。だから、彼らが最近になって東欧からやって来たロマ達にどこまで親近感や「同胞意識」を持っているかは、本人達の本音を聞いてみない限りわからないかもしれない。

しかし、こうしたロマの貧困とロマへの差別は、世界に名高い芸能であるフラメンコという生業を持つグラナダのロマにとっても全くの他人事ではないのかも知れない。そんな気がした理由は欧州の他の地域から来たと思われる観光客たちの彼らに対する態度である。いわゆるヘイトではない。その、見事な無視っぷりである。

特にコロナ以前はサン・ニコラス展望台は相当混雑していて、チャロたちが座って演奏しているすぐ側に白人の観光客のグループが座っていることもよくあった。ある動画では激しくギターを弾くチャロの腕とほとんど袖が振れ合うほど近くに、数名の連れと共に年配の白人男性が座っていたのだが、彼らは全く、チャロたちに視線を向けることはなかった。たとえその音楽が気に入らなかったとしても、それはそれでかなりうるさいと思うので、日本人ならチラ見するくらいはすると思うのだが、まるでそこには何も存在していないかのように、仲間同士で談笑し、スマホで後ろに見えるアルハンブラ宮殿を入れた写真を自撮りするのに夢中になっていた。

他にもすぐ傍にいながら、全く何も見えず、奏でる音も聞こえていないというふうな態度を取る人が結構いた。小鳥とかリスとかの小動物でもいた方がまだしも注意を向けたかもしれない。

もちろん、白人でも彼等の演奏に興味を持って楽しそうに眺めたり、スマホで動画を撮ったり、投げ銭を入れたりする人たちもいて、だからこそ彼等も商売になっているのだが、一方でその徹底した無視っぷりが目につく人たちもいた。

初め、ロマには関わりたく無いのでわざと無視しているのかとも思ったが、だったらもう少し距離を取りそうなものだ。もしかしたら本当に見えていない、というか、そこに存在しているのはわかっていても意識の中に入れないフィルターのようなものでもあるのかもしれないという気がして、ちょっと薄気味が悪かった。

最近知って驚いたのだが、日本は本国スペインに次いでフラメンコ(舞踊)を習う人口の多い“フラメンコ大国”だという。フラメンコギターもなかなかの人気のようだし、もしかすると日本人は世界でも有数のフラメンコ好きな国民なのかもしれない。戦前から既にフラメンコダンサーや演奏家が来日していたり、新宿にある1962年開店のタブラオ(客にフラメンコのショーを見せるショーパブのような店)はスペイン国外では世界で四番目に出来たものだという。つい最近もアンダルシアで行われたフラメンコの大会で若い日本人の男性ダンサーが優勝したというニュースもあった。古くは日本人ながらスペインでも活躍された長嶺ヤス子さんのようなダンサーもいた。(今もご健在で活動されているようだが)スペインでも有名なフラメンコのアーティストたちも大抵が日本に公演に来ているらしい。

「フラメンコを芸術にしてくれたのは日本人」とスペインのフラメンコ関係者の誰かが言ったという言葉もどこかで読んだことがある。たしかに日本人としては「フラメンコは芸術だ」と言われても特に異存はないが、しかし、もしかしたら欧州の多くの人々にとっては必ずしもそうではないのかもしれない。彼らにとってクラッシック音楽やクラッシックバレエは間違いなく芸術だろうが、フラメンコはロマたちがやっでみせる娯楽の一種であり、見せ物でしかないのかもしれない。

調べてみるとスペインは欧州の中ではルーマニアに次いでロマ人口の多い国だという。およそ、50万〜100万人。(スペインの総人口は4742万人)ざっくり言って100人に1人〜2人はロマだということになるが、やはりかなりの差別があるので、ロマであることやロマの血を引くことを隠している人も多く、ルーマニアでそうであるように、その正確な数は不明で推定するしかないという。

もちろん、フラメンコのような芸能活動で生計を立てている人はごく一部だろう。(フラメンコに関してだけは、ロマであることはむしろ有利に働くのかもしれない)

他の人たちがどうしているかはわからないが、やはりスラム化した場所に住み、窃盗や麻薬関係の犯罪に関わっている者も少なくないと言われている。もちろん、普通の市民として真面目に働いている人も多いはずだが、他の市民からの偏見も強く、ある調査では国民の25%近い人々がロマに対して悪い感情を持っているという。別の調査ではスペイン国民の半数近くがロマに否定的な感情を持っているという結果もあるとかで、ロマとして、そうした社会の中で生きるのはやはり容易なことではないのかもしれない。


Yasmin、日本のロマになる?

私は欧州へ行ったことはないのだが、そうした調査結果に思い当たることはある。十数年前のことだが、英国のBBC放送が主催している「世界の英語学習者のための掲示板」というのに参加して世界各国の人たちとさまざまな話題で英語でやりとりしていたことがあった。もともと英語は得意ではなかったのだが、インターネットをやるようになってから海外の記事などを翻訳紹介してくれるブログさんなどを読むようになり、海外で報じられている重要なことが日本ではそうでもなかったりということがよくあることに気づいて、自分でも読めたらと思ったのだ。

その掲示板でベルギー人のヘルマンさんという男性と知り合い、やがて個人的にやり取りするようになった。(といってもロマンチックなことは何もなく、相手は二回り近くも年上で、長年連れ添った奥さんはもちろん、小さなお孫さんも三人もいるおじいちゃん、最初に送って来てくれた写真はお孫さんたちと遊んでいるところだった)ヘルマンはベルギーでもフランドルと呼ばれるベルギー北部の人。海峡を挟んで海の向こうは英国で、何もしなくてもテレビやラジオには英語放送が入ってくるような場所に住み、フラマン語と呼ばれる彼の母語は事実上、オランダ語なのだが、オランダ語と英語は兄弟のようなもので文法その他がよく似ているという。

つまり、英語に関しては母国語も同然に不自由しない人だったのだ。(インテリなのでベルギーの他の公用語であるフランス語とドイツ語にも不自由しないようだった)そんな人がなぜ「英語学習者のための掲示板」に来ていたかというと、要は「ネット上のガールフレンドを作るため」であったらしい。英語を通して世界各国の女性たちと友達になって話すこと。それが当時、奥さん共々優雅な年金生活に入っていた彼の趣味だったのだ。(こうした彼の趣味は奥さんも公認で、向こうから来たカードやプレゼントには奥さんの名前も入っていたし、こちらから送った物の宛名にも奥さんの名前も入れた)私は日本人では三人目の彼の“ガールフレンド”であったらしい。

それからはヘルマンと英語でかなり長文のやり取りをすることになった。なにしろ相手は「ヒマな御隠居さん」なので時には毎日のように長文メールが来て、参ったなと思ったが、結局、その当時からけっこう使いものになって来ていたネット上の無料翻訳ソフトを使いまくることになった。翻訳ソフトと言っても必ずしも正確な話が伝わるとは限らないので一度翻訳したものをまた日本語に直して確認したり、どうしてもニュアンスが伝わらないと思う時は、やはりネット上の辞書を引いてピッタリ来る単語をさがしたりと結構手間がかかった。(ヘルマンから来たメールもよく意味がわからないことがあったが、だからと言ってそれが重大なことでもなさそうなので気にしないことにした)そのうち翻訳ソフトに掛ける日本語の書き方にもコツがあることがわかって来て、初めからそのように書くようになった。結果として英語よりも翻訳ソフトの使い方に習熟してしまい、時々書き込んでいた日本の掲示板では「あなたの日本語は変だ。本当は外国人だろう?」と言われるまでになってしまった。

一方で当時、私が両親とやっていた田舎の自営業は先細る一方で、最後のパートさんにもやめてもらってこの先どうしようかと思っていた。既に近所には後継ぎがおらず、閉店する店が多かったのだが、特に洋品店は早くて近いところで三つあった洋品の店は全て閉店してしまっていた。それで近所のおばさんたちから「お宅あたりで置いてくれれば便利なのに」と言われて、店の一角を仕切ってそこに洋品を置くコーナーをつくり、時々、東京の問屋街まで仕入れに行っていた。あまり儲かりもしなかったのだが、中高年向きのちょっとおしゃれな服を仕入れると楽しみに見に来てくれる近所のおばあちゃんたちもいたので、それなりに張り合いはないでもなかった。そして、その服たちを眺めているうちにこれを車に積んで売り行ったらどうだろうと思った。つまり行商である。

近年はうちの方にも洋品の大型安売り店も増えて来て、実は私も個人の店ではなく、そうした店でよく買っていたのだが、そうした店では若者から中年くらいまでの客層を想定しているらしく、うちの母くらいの世代の高齢者になると、なかなか合うような服がなかったりした。それから、そうしたおばあちゃんたちが長年愛用して来た昔ながらの純綿の肌着などもあまり置いていなくて不便もしていたようだ。だから仕入れに行く時はそうしたものを心がけて買って来たので喜んでくれるお客さんもいた。特に少し山の方に入ったところのお年寄りなどは交通量の多い場所にある店まで出かけるのも億劫だったりするようで、こまめに回れば需要はあるかもしれなかった。

その話をたまたまヘルマンに書いたら、彼はびっくりしたように「本当にそんなことを始めるのか?」と言ってきた。「それはこちらではロマたちの仕事だよ」と。そしてもう一人の彼の“ガールフレンド”で、私も一、二度、やりとりをしたことがあるルーマニアのエレナさんとロマについて語った時のやりとりも書いてきた。

実は欧州では露天商や行商人には圧倒的にロマの人たちが多いらしい。いわゆる「テキ屋さん」もそうで、あの「フーテンの寅さん」も欧州人が見たら確実に「日本のロマ」だと思うだろう。しかし考えてみれば、彼らにとっての真っ当な稼業の一つでもあるわけで、それ自体は少しも悪いことではない。(もちろん、粗悪なものを偽って高く売ったり、欲しくもないものを無理やり売りつける「押し売り」などをしたら良くはないが、中にはそんな人たちもいるのかもしれない)それなのに単に商品を車に載せて移動販売するだけで特殊な階層の人間と見做されて蔑まれる理由が納得し難く、ちょっと論争になってしまった。

ヘルマンはあくまで私が行商をすることに反対だったようだ。エレナさんの言葉と共にロマが欧州でどんなふうに見られているかを語ってくれた。それは普段、リベラルで誰にも偏見など持っていないと思っていた彼の言葉にしては多少、ショックでもあった。

結局、「いいもん、私、日本のロマになるから!」と言ったら、呆れたのか黙ってしまって、それ以上、この件では何も言っては来なかったが、その時初めて、以前から少しは聞いてはいた欧州でのロマへの差別や偏見の根深さを垣間見たような気がした。

ごく一部の人たちが(主に芸能、音楽の分野で)その才能を愛でられてもてはやされれたり、あるいは文学、芸術作品の中でその「自由に生きる流浪の民」というイメージだけがロマンティックに取り上げられたりする一方で、現実のロマの人々に対する欧州人一般の持つイメージはかなり悪いもののようだ。

その後、私は本当に洋品の行商を始めた。友人のイラストレーターに依頼して私をモデルにした「可愛い女の子」のイラストとロゴの原画を描いて貰い、父の乗っていた白いバンをピンクに塗り替えてその上にイラストとロゴを描いてもらった。そうした絵や文字は近所の自動車整備工場を通して専門の職人さんに描いてもらったのだが、ドアの中程にこじんまりと描いてもらうつもりが、出来上がりを見たら、車体全体に大きく描いてあったのでびっくりした。(こんな目立つ車、恥ずかしくて乗れないよ!)と内心思ったが「描くんならこれくらい目立たせなきゃ意味ねえよ!」という、若い頃には少々“やんちゃ”もしたという整備工場のおじさんに励まされ、「そうだ、私は日本のロマになるんだ!」という決意のもと、暇になった店の仕事の合間に田舎周りの行商に出た。元々うちの店のお客さんには地元のお年寄りが多く、母の実家も山の方だったのでそうした場所を回るのに抵抗はなかった。なかなか「儲かる」と言うところまでは行かなかったが、段々に顔を覚えてもらって買ってもらえるのは嬉しかった。しかし、一年経たないうちに父が認知症で介護認定され、さらに一年経たないうちに母までがそうなってしまい、長時間家を空けるのは不可能になり、残念だがその仕事もやめざるを得なかった。

ちなみにスペインは、外国人観光客の受け入れ数ではフランスに次ぐ世界第二の観光立国であり、かつ、コロナによる死者数も多かったところだ。コロナによる観光客の激減も半端ではなかったらしい。特にグラナダにはスペイン国内でも厳しいロックダウンが掛かっていた時期もあったようだ。観光客からの投げ銭やご祝儀、自主制作のCD(投げ銭が入れられる開いたギターケースの中によく並べて置かれていた)の売り上げなどで生計を立てていたらしいチャロたちの生活はこの三年、どうなっていたのだろう。

国の観光事業者への補助金もあったようだが彼らにまで届いていたのかどうか?同じロマでもサクロモンテの丘にタブラオを持ち、「洞窟フラメンコ」として国外からの観光客に人気の観光スポットになっている店の経営者たちもいるようだが、チャロたちが持つのは自らの体と歌声とギターの腕だけだ。各人が「営業許可」を取って確定申告をし、税金を払っていたりしているのかどうかは定かではないが、そうでなければコロナによる減収を証明することも難しいだろう。

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