
Day.007 「意味をデザインする」というやり方 / 2章「デザインのやり方」
Last updated date : 2025.2.25
Version : 1.01
D007-1 「意味論的転回」の序論にある一文
さて、筆者たる蘆澤くんは大学教員です。世の中的にはいわゆる「学者」とやらに分類されます。学者たるからには、恐らくは「勉強が大好き」とか「本を読むのが好き」といったイメージを抱かれるかと思いますが、私の場合は「勉強も嫌いだし、ましてや本を読むのはもっと嫌い」です。「そんなんで、よく学者なんかやっているな」といった声が聞こえてきそうな気がしますが、実際問題、私も「よくこんなんが学者なんかやれているな」なんて思ったりもします。
思い起こせば、以前に小野先生と「デザインのしくみ」なるマガジンを執筆していた際にも立場がそうさせたのか、どことなく学術的な書きっぷりをしていた気がするのですが、本来の私というのは「そういうのが嫌いな人種」だったので、やっぱり書いていて無理があったような気がします。
「アイデアの基本的な考え方」でもお話した通り、デザインでは「アイデアを躊躇なく捨てる」ことが大事でもあるので、思い切って一度「デザインのしくみ」も躊躇なく捨てて、本来のゆるいノリで現在のマガジンを書き始めた。そんな流れになります。
とまぁ、余談はさておき、本を読むのが恐ろしく嫌いな蘆澤くんですが、さすがに職業柄ということもあり、たまには本を読みます。ということで本日はひとつ、とある本に書かれた一説をご紹介したいと思います。それがこれです。
デザインとは物の意味を与えることである。
Design is making sense of things.
ちなみに上が訳文で、下が原文です。この著者たるクラウス・クリッペンドルフ(Klaus Krippendorff)さんは社会科学者やサイバネティクス研究者に分類される方で、この本自体の内容はとても難しいです。なので、読めば読むほど眠くなること間違いなしなのですが、内容自体は「なるほどな」となりますし、ところどころ、上述したような「ズバッとした物言い」で書いていたりするので、読んでいて心地よくもあったりします。
ということで、本日はこの「デザイン=物の意味を与える」という部分について、可能な限り分かりやすく説明したいと思います。個人的には、これからのデザインにおいては、こうした考え方がとても大事になるのではないか?と思っています。
D007-2 「学生が授業を真剣に受けてくれない」問題
さて、「意味をデザインする」という事例については、実はすでにひとつ事例をご紹介をしていることにお気づきでしょうか?それは「私たちは何をデザインしているのか?」でご紹介した新産住拓の事例です。「意味をデザインする」という文脈でこの事例を理解するならば、元々は「頑張って設計した内容にケチを付けられてしまう制度」だったセカンドオピニオンの意味を「お悩み相談をして、よきアイデアをもらう制度」に変えたという風に理解できます。そのための手段が「☆マーク」だったという話です。とはいえ話が少し専門的過ぎて、いまいちピンとこない方も多いのではないか?ということで、今回は少し違う事例をご紹介したいと思います。これも私が実践している事例です。それは何かというと「学生が授業を真剣に受けてくれない問題」です。
何と言いますか、教員をやったことのある方であれば少なからず一度はこの問題に頭を悩ませたコトがあるのではないでしょうか?例えば大学の授業であれば、サボるのは当たり前、たとえ授業に出ていたとしても内職(他の授業で出た宿題をする)をしているか、YoutubeやらTikTokやらの動画を見ている、ゲームをしている、みたいなのは割とどこでも目にします。「そんなのお前の大学のレベルが低いからだろうが!」という声も聞こえてきそうな気がしますが、かつて東京大学で授業をやっていた時も同じような感じでした。なのでまぁ、こうした話は大学のランク関係なく起こることだったりします。かくいう私も、冒頭ご紹介した通り「勉強なんて大嫌い人間」なので、学生時代はサボり倒しましたし、授業中に全然違うことをやっているなんてザラでした。今思えば、先生方からすると相当タチの悪い学生だったと思います。
ところがどっこい、今度は私が先生方の立場になってしまったので、サボる学生を眼の前に「はて、どうしたもんかなぁ」と考え込むことになってしまいました。とはいえ、自身もサボり学生だったので、なんというか「まぁそうなるよね」という風に思うところもあり、どっちつかずのアンニュイな顔で「ぬー」といった唸り声を上げるといった感じでした。
また、自身がサボり学生だったので、サボる学生の行動パターンもなんとなく分かります。一般的には「どうにかしてサボれないように締め付けを厳しくする」といった方法が採られますが、それでは全く埒が明かないことは何となく分かっていました。何故かと言えば、私がそうであったようにサボる学生は「サボることに余念がない」からです。簡単に言えば「どれだけ締め付けをしたところで『なんとかしてその抜け道を考える』というイタチごっこの繰り返し」が起こるだけです(実際問題、私がそうでしたし…)。
ということで、あれやこれやと毎年、サボり対策なるものを講じていたのですが、どうも上手くいきませんでした。その理由には色々とあったかと思うのですが、悶々と考えているうちに、なんとなくサボる根本的な原因が見えてきました。これについては逆、すなわち「放っといてもどんどん学んじゃうモノ」を考えてみると問題点が徐々に見えてきます。
例えばゲームを例にしてみましょう。ゲームにも「学ばなければならない瞬間」はあります。例えば格闘ゲームであれば、操作方法や必殺技を出すやり方、ゲームに勝つための戦略など、考えてみれば「学ばなければならないこと」は数多くあります。よーく考えてみれば、授業で学ばなければならないことよりも、遥かに多くの量を学ばなければならないこともザラです。なので、学ぶ量や難しさだけを比較してみれば、ゲームの方がしんどいことも多々あります。ところがどっこい、ゲームの方は放っておいてもじゃんじゃん学んでいくにもかかわらず、授業の学びは一向にやろうとしないわけです。ということは、サボる問題の根本は「学びの量や難しさ」ではないのです。
では一体、どこに問題の根本があるのでしょう?その答えとして私が導き出したのが「学ぶ意味」です。ゲームの方は「自らの興味にもとづいて自らが進んで学ぶモノ」であって、大学の授業は「そんなに興味がないけど、学ばなければいけないモノ」です。この違いが「学ぶモチベーションの差」を生むのではないか?という風に考えるようになったのです。簡単に言えば、授業をゲームと同じような「興味に従って自ら学んじゃうモノ」へとシフトさせられれば、この問題も解決できるのでは?と考えたという話です。
とはいえ「全く興味のないコト」に対して興味を抱かせるのは至難の業です。ですが、幸いなことに大学というのは、少なからず「ここを受験する」というのを自ら決断します。もしかすると、誰かに勧められることはあるやもしれませんが、最終的に決断するのは自分です。であれば多少なりきにも「他の学問分野よりも興味関心がある」と考えることができます。これはチャンスです。ということで、あれやこれや考えた挙げ句、私が出した結論はこちらです。
よし、授業という名称を変えてしまおう。
「何を言っているんだ?こいつは」と思われた方も少なくないと思います。ということで、私が実際に授業で使っている資料を一部抜粋してそのまま貼り付けてみたいと思います。それがこちらです。


(中略)

(中略)

(中略)

(中略)




(中略)


いかがでしょう?自分で言うのもなんですが、まぁまぁぶっ飛んでいますよね。ちなみにこの資料は1年生授業の初回で使っているモノです。2023年からこの説明を始めたので、かれこれ3年目に突入します。
で、結果はどうなのか?というと、具体的に何らかのデータを取ったわけではないので、肌感覚でしか言えないのですが、少なからず学生から「滝行」として提出される宿題の品質はグッと上がった気がします。あとは、宿題に対する質問もグッと減りました。私の授業(修行)の場合、宿題としてレポートのようなものを課すことが多いのですが、これまでは「これって、どこまでやればいいんですか?」といった質問が多く出ていました。もちろん、初回あたりはこういった質問も出てくるのですが「修行なんだから、どこまでやるか?も自分で考えて」と返すと、それ以後の質問が一切なくなります。恐らくですが、学生からすると「まぁ、たしかにそうですね」といった感じで、返す言葉が無くなってしまうのだと思います。
このようなやり方に「学生がどう感じているか?」については聞いたことがないので何とも言えないですが、まぁ少なからず「うわっ、ダリぃ」と思っている学生はそれなりにいる気がします。ちなみに「あー、そのパターンね」と言われたことはあります。もしかすると、私の空耳かもしれませんが、併せて舌打ちもしていたので「ダリぃな」の方向であったかと思います。おかげさまで、学生の私に対する評価は賛否両論だそうです。これは学生たちからよく聞くので、ほぼ間違いない感じです。
とまぁ、私の評価はさておき、この話ですが、何もダジャレが言いたくてこうしているわけではありません。「授業の意味をリ・デザインするにはどうすればいいか?」をあれこれ考えた結果、「授業を修行に変える」という風にすれば印象にも残りやすくていいのでは?という結論に至り、実行に移したという内容になります。
ロジックは簡単です。目的は「授業の意味を『やらされる受け身のもの』から『自発的にやっていること』に変えたい」という話で、それを考えた時に「授業という名称は、"業"を"授"かると書くわけだから、意味として受け身になってしまうよね。だったら名称(つまり、意味)を『自発的にやるもの』に変更しなければならない。」という思考に至り、結果としてちょうど似たような言葉に「修行」があったので、これを採用した。という流れになります。
今回のように名称の話だと意味と直結しますが、例えば「ゴミ箱にバスケットゴールを取り付ける」や「灰皿を投票箱にしちゃう」というのも意味のデザインです。
ここで理解していただきたいのは、「モノの価値は形態そのものから導かれるのではなく、意味を誘導することによって導かれる」ということです。デザインする側に立てば、「何をどうデザインすれば、その認識(意味)へと誘導できるのか?を考えるのが意味のデザイン」という話になります。
これを逆に言うならば「どれだけよいカタチをデザインしたところで、その誘導(意味)が上手くデザインされなければ、結果として使われないので、よいデザインになり得ない」とも言えます。
せっかくなのでもうひとつぐらい事例をお話したいと思います。
D007-3 「審査委員の意識を変える」という問題
「私たちは何をデザインしているのか?」においてもお話した通り、一度逃亡して連れ戻された際に、グッドデザイン賞の審査側統括をやることになり、青木さんから様々な課題を言い渡されました。この中のひとつとして「審査委員の意識改革」というのもありました。これは何か?というと、「審査委員の態度が横柄なのを何とかしなさい」という課題でした。無論、全員そうだったわけではありませんが、そのように思われても仕方ないなぁと思う態度の方がいたことも確かです。
今もまだ存在しているかもしれませんが、当時は「対面審査」という制度がありました。グッドデザイン賞は応募制なのですが、この審査において「応募者から直接話を聞く審査」というのが対面審査です。グッドデザイン賞は応募してみると分かりますが、とにかくアレヤコレヤと色々やらされます(裏を返せば審査委員も同様に色々やらされるのですが…)。その中のひとつが対面審査でした。で、この態度問題はこの対面審査で顕になるので、数がさほど多かったわけではありませんが、応募者からのクレームとして顕在化していました。まぁ、何といいますか「審査」というのは、言い換えれば「査定」なので、気が付かないうちに「謎の上下関係」が出来てしまっても仕方ないですし、応募者の側から見れば「(謎の上下関係があるので)ちょっとした所作が横柄に見える」というのも仕方ないかなぁとも思います。
ということもあり、この話は言われた時に「まぁたしかにそれもありますね」という感じではありました。とはいえ、相手は社会の第一線で活躍している方々、一方の私はさしたる実績もなくデザイン業界をふらふらしている人です。私ごときが何かを言ったとて「あいつは何様なんだ」と言われかねません。これまた難しい問題です。
当時はまだ30代前半だったこともあり、ある意味、血気盛んだったのでしょう。一度、審査会の冒頭で行う事務局説明の際に「応募者の方々はある意味で人生をかけて応募されています。みなさま、どうぞ愛をもって審査してください。」と言ってしまったことがあるのですが、これまた賛否両論でした。というか、圧倒的に「否」が多かった気がします。おかげさまで、後に別の職員から「『あいつは何様だ』って言ってたよ」とも言われましたし、先輩職員からは「あの物言いはダメだよ」とも注意されました。今思えばたしかにそうで、ここで書くのも恥ずかしいといえば、恥ずかしいです。逆に言えば、そんなことをしてもお咎めなしで許してくれた皆さまに感謝する次第です汗
といったような失敗も経た結果、「何か自然なカタチでそうシフトするような方法を考えなければなぁ…」と思案にくれることになりました。で、この時に考えたのが「審査の意味を変えられないか?」ということでした。頭の中で考えた思考はこんな感じです。
審査委員は何故、審査をするのだろう?
それは「よいデザインを顕彰するため」だ。
じゃあ、審査というのは「よいデザインを顕彰する」にあたって、どういう役割なのだ?別に「よいデザインを選ぶ」だけが役割ではないよなぁ。
っていうか「よいデザインを選ぶ」だけなら、そんなの市場に任せればよくね?
いや「"実は"これはよいデザインなんだよ」と伝えるのが役割なのでは?
ということは「”実は”これはよいデザインなんだ」というのを見つけるのが審査の役割なのでは?
そう考えてみると、審査委員が書く講評文というのは「"実は"これは、ここがいいんですよ」という「解説文を書いている」と考えられるな。
っていうことは、審査というのは「応募された無数のデザインから『これはよいデザインなんだ』というのを発見する」のが役割なのではないか?
だとすると、講評文というのは「それを世の中に共有する活動」と理解できるな。
と、書き出してみると割とアッサリしていますが、実際はこれを毎日、悶々と考えていた感じです。で、この結論に至った結果、作ったのが以下の図です。これはまだ、グッドデザイン賞のホームページに残っていた(これは嬉しい!)ので、その画像を貼ります。

from https://www.g-mark.org/learn/gda/overview
さらに、審査委員の方々に説明するよう解説を付した図がこちらです。

「1.グッドデザイン賞全体の仕組みとスケジュール」に差し込んだ図
https://www.g-mark.org/apply/gda/screening/perspective
そして、この図を作った年から私の説明も変えました。それがこれです。
グッドデザイン賞は数多く応募されたデザインから「次なる社会の可能性を発見し、社会へ広く共有するための装置」です。ですので、審査委員の皆様方におかれましては、審査を通じて「次なる社会に向けた発見をして、それを世に広く共有」してください。
これについては、なんとなくですが賛同を得られたという実感がありました。これが効いたのか否かは分かりませんが、審査員の方々の態度も徐々に変わってきたように感じています。まぁ、審査という「査定役」から「発見役」にシフトしたわけですから、「可能な限り応募者の方から情報を手に入れよう・理解しよう」という風になってもおかしくないですよね。そうすると、やっぱり態度というのも変わってくるわけです。
そして、ちょうどこれを提示したのと同じぐらいのタイミングで、当時の審査委員長であった永井一史さんから「グッドデザイン賞を通じて何か提言を発信した方がいいのでは?」という提案を受け「フォーカス・イシュー」という制度もできました。これについては、ちょうど「審査は発見と共有だ!」という考えがまとまった頃だったので、永井さんから提案を受けた際には「永井さん!まさにこれですよ!」とテンションが爆上がりしました。これも「役割シフト」をより意識・加速させることに繋がったように感じています。これを執筆している段階でも、まだこの制度が残っていたので、それはそれで感慨深い今日この頃です。永井さん、柴田さんとワイワイやっていたのを、今でも鮮明に覚えています。なんというか、とても楽しい時間でした。
これまた余談ですが、実はこの話で最も嬉しかったのは青木さんの一言です。実は青木さん、めったに人を褒めないのですが、これについては「これは中々いいですね」と言っていました。
D007-4 デザインは必ずしも「新しいモノ」を作らなくてもよい
さて、今回は「授業→修行」「審査→発見と共有」という意味のデザインの事例について説明しましたが、ここでひとつご認識していただきたいことがあります。それは何かというと、
どちらの事例も「実は何ひとつ新しいモノを作っていない」
ということです。授業も名前は変えましたが、実際にやっているのは普通の授業です。グッドデザイン賞の審査も意味は変えましたが、実際にやっているのはこれまでと同じ審査です。つまり、意味はデザインしましたが「意味以外はさして何もデザインしていない」というのが実態です。
今一度、冒頭の一言に戻って欲しいのですが、クリッペンドルフさんは「デザインとは物の意味を与えることである」と述べていました。これは、裏を返せば「必要十分な物がそこにあるなら、デザインがやることは適切な意味を与えることだけでいい」とも言えます。
かつて、例の青木さんは「デザイナーはいちいち新しいモノを作らなくてもいい」と言い、「デザイナーが作っているのはモノではなく、新しい価値観なんだ」と言っていました。これを初めて聞いた当時は、分かるような分からないような感じでしたが、意味のデザインを実践した今となっては、もう五臓六腑に沁み渡る感じです。
ということで、意味のデザインからまず皆さんに学んでいただきたいのは「デザインをする際にはまず、何かを新しく作る必要があるかどうか?から考えましょう」ということです。もしかすると、言葉ひとつで済むかもしれません。逆に言えば「言葉ひとつで変わってしまうのだから、言葉ひとつであっても神経を尖らせて考えないとダメですよね」という風にも言えます。
まぁ、これも明日から急に意味のデザインが上手になることはないので、試行錯誤あるのみかと思います。
D007-5 まとめ
さて、今回も箇条書きのまとめをしたいと思います。
「デザインとは物の意味を与えることである」という言葉があるように、デザインには「意味をデザインする」という考え方もある。
「意味をデザインする」の方法には「名前を変える」といった、言葉のデザインもある。
モノの価値は形態そのものから導かれるのではなく、意味を誘導することによって導かれる。
デザインする側に立てば「何をどうデザインすれば、その認識(意味)へと誘導できるのか?を考えるのが意味のデザイン」という話になる。
逆を言えば「どれだけよいカタチをデザインしたところで、その誘導(意味)が上手くデザインされなければ、結果として使われないので、よいデザインになり得ない」とも言える。
意味のデザインにおいては「必要十分な物がそこにあるなら、デザインがやることは適切な意味を与えることだけでいい」とも言える。
デザインをする際にはまず「何かを新しく作る必要があるかどうか?」から考えた方がよい。
言葉ひとつで意味は変わってしまうのだから、言葉ひとつであっても神経を尖らせて考えないとダメ。
今回は箇条書きの項目数が少し多いかもしれませんが、どれも大事なことだと思うので、ぜひ記憶にとどめておいていただければ幸いです。
ということで、今回はこれで終わりにします。またお会いしましょう。