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仕事を辞めた

11月30日をもって前職を退社した。「次」を決めずに辞めるのは人生で初めてのことだ。

さすがに仕事を辞める前後には心身の負荷がかかるものだったらしく、それに将来への不安も相俟って調子を崩した。何もできない週末の夜、床に臥したままラーメンズの「器用で不器用な男と不器用で器用な男の話」を流していたら、なぜだか知らないけど号泣してしまった。何度も見てオチも知っていたはずなのに、ぼんやりした頭で思い出せずにいたら、小林賢太郎の慟哭に不意打ちを受けた。

30も超えて浮き沈みあるままなのもいい加減にしたいと思いつつ、身に染みついた習慣や心性はそうそう変わらないんだろうなという、安堵と諦めの合いの子みたいな感情のまま生きている。

直近数ヶ月はいろいろあって、内容を問わずなにかを吐き出すこと自体がリスクになりかねない感じになっていたので、ソーシャルメディアもnoteも辞めていた。今年は毎日書き続けようと思っていたんだけどな。

一年ももう終わるし、noteで何かを書き続けることすら逡巡する状況ではあるけれど、いくつかの理由で、文章を書くことを少しずつ再開しようかなと思う。

まず、「ものを書く筋肉」を取り戻すトレーニングをしなければならないから。

先月から今月上旬にかけて落ち込んだコンディションは、頭の回転や会話については徐々に戻ってきているのだけれど、書きものがまだ全然だなという感覚がある。文章にせよ資料にせよ、何かを書く作業は俺の仕事の根幹をなす。その質と速度を取り戻さなければならない(もろもろ遅れてる方ほんとにすみません……)。

仕事を辞める/辞めた、という話をした時、複数の人から言われたのが「何か書きなよ」というアドバイスだった。

すぐ上に書いたことと矛盾するようだけれど、自分のことを "書く人" だと定義したことはないし、才能があるとも思わなければ、書きたいものがあるわけでもない。ただ、さすがにある世界で仕事をする歴が長くなってくると、他の人があまり書かない、書けないことを形にできる可能性はあるのかもしれないと思うようになった。決まった所属のない現在の立場なら、なおさらのことだ。

といって、仕事のことばかりを記すつもりはない。何か書いてほしいネタなどあったら教えてください。

ものを書く時間それ自体が、自分自身を変性させていく効果にも期待するところがある。

人によって書くものと人間性の距離感は様々だけれど、俺個人は、話し言葉によるコミュニケーションと書き言葉による表現で人が変わるほうだ。そもそもの性格からテンションから割と違う。どちらが真実の自分ということもないのだけれど、その「話し/書き」の割合を変えることで、パーソナリティ自体が変化していく予感がある。

また、何かを書こうとパソコンに向かう時間は、否応なく内省的になることも大きい。感染症が影を落とす時期にあまり内省すると、また憂鬱さが増してしまう危険性も感じなくはないが、ひとまずやってみよう。

1200字程度の、それも内容のあるわけでもない文章を書くのにも3時間強かかり、もう夜も明ける。自分が思う100%のパフォーマンスを取り戻すまでの道は長そうだと思う。それでも、一歩目を踏み出さなければならない。

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坪井遥
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