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ラブレターに近しい何かとしての「解説」

「解説が本編を超えるぐらい良すぎるから読んでみろ」と友人にとある文庫本をおすすめされて読んでみた。書くだけではなく読むことにも少しリハビリが必要なようで、20ページぐらいの短い文章を、週末をかけて少しずつ、少しずつ読んだ。

書籍の解説は、ラブレターに近いものがある。敢えて本職でない書き手の例を挙げるのもなんだが、南海キャンディーズ山里亮太の『天才はあきらめた』にオードリー若林正恭が寄せた解説文なんてその極みみたいなものだ。

ラブレターと違うのは、送る先が愛する人ではなく読者だということ。だから、自分の愛の対象はどういうもので、なぜ愛すべきなのか、を、第三者(読者)に伝わるよう正確に書けなければならない。あなたとわたしで完結する世界じゃないぶんだけ、多分ラブレターより難しい。

凡百の解説にはこの「第三者の視点」を意識するところでつまづくものも多くて、愛を語るふりをした自慰行為を見せつけられたような気分になることもある。

勧められたあとがきは、オードリー若林とタメを張るぐらいの見事な艷書になっていた。解説が堕しがちな単なる交友関係エッセイとか、その時代の空気感がなければ読み解けないものにもしない。解説者の自分語りも、著者の通史的な解説もバランス良く書いた上で、本編を読み終えた読者が思う作品への好感をうまく言語化し、感情に輪郭を与えている。

実のところこの解説を書いたのは、本編(小説だ)を書いた作家の元担当編集で、だから芸人より文章が上手いのも、作者との交流があるのも、それででいて通史が書けるのもある意味当然ではあるのだけれど、それでもちょっとぶっ飛んだクオリティだった。

紙の経験がないこともあり、いつまでも半人前気分が抜けないものの、俺自身も編集者という肩書きでお金をもらってきた。俺の場合は、文章に光る才能がない自覚がないから編集者をやっているところがあるのだけれど、この解説を書いた編集者は「作家になってもきっと賞は取れるのに、たまたま編集者をやってる」みたいな感じなんじゃないかと思ってしまった。

俺もいつか、誰かに解説を託してもらうような未来があるのか。もし依頼してもらったとして、これレベルの文章が書けるのか。そんなことを逡巡する体験だった。それに絶望とか焦燥の感情がついてこなくなったのが、老成なのか、持つべき闘争心を失った結果なのかは、判然としないけれど。

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坪井遥
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