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穢れの先で

10年前、千人単位のホールをパンパンの満員にしていた天才アーティストが、目で数える限り200人も客がいない小さな会場で歌っていた。

声量こそ落ちていないが、天賦の武器だったハイトーンもロングトーンも出なくなっていたし、
デビューしたての頃、少しでも鋭い言葉が耳に触れたら自害でもしてしまうのではないかというような繊細さと壊れやすさを湛えていた彼が、2024年の今、MCで酒と金の話ばっかするようになっていた。終盤とか曲の終わりに「つかれたよー!」って叫んでたし。

CDのめっちゃグレードアップした版を聴いているのかと錯覚した音像の構築はなりを潜め、一人ひとりはバカテクだけど組んでまだ日が浅いこともあって、バンドの鳴らす音は、緻密ならアンサンブルやグルーヴが存在しているとは言い難かった。
平気で主旋律をコーラスの女性に歌わすし。終盤、サビの7割ぐらい客に合唱させてたし。長渕剛かよ。

ライブハウスに通い始めた10代の頃の俺だったら、「ふざけんじゃねえ」って怒り狂ってたかもしれない。6000円だぞって。1日100円のリプトン2か月我慢して貯めた金だぞって。

でも、なんかよかったんだよな。

30代も後半に差し掛かった俺の年代がたぶん最年少ぐらいで、若い頃にその才気にヤラれたまま大きくなったおっさんやおばさんがぎこちなく身体を揺らして、
新曲なんて聴いてねえから上手くノれずに、1番ヒットしてた頃の曲では恥も外聞もなく新曲の時の100倍デカいリアクションしてさ。最後のほうなんて「ロッキー」の世界みたいな、KO寸前のボクサーを押し上げようとするような声を出して。

人はそれを「凋落」とか「昔の遺産でみじめに食い繋いでる」とか言うのかもしれないけど。彼は立派にステージに立っていた。新曲のメロディセンス、相変わらず抜群だったしな。


人生の価値を何を成したかで考える時期を過ぎ、いつからか「そこに立ち続けること」そのものに、かけがえのなさを素直に感じるようになった。

ヘロヘロのボロボロになったジュリーを高い金払って観に行くおばさんとか、年末の紅白でランちゃんに紙テープを投げる親衛隊の気持ちが、はじめてわかってしまった。

自分が若いころに惹かれ、想いを託した相手が、時を経てもステージに立ち、変わらずに愛する営みをやり、現在地を更新し続ける。
そんな姿を見て、自分の人生までついでに肯定されているような気分になるんだな。って、俺ももう老い先長くないのか?

歌い続けてほしいな。数十人ぐらいのバーで、酒でヘロヘロになりながら、代表曲をワンオクターブ下でボソボソと歌うようになったとしても。
音楽的な価値や新しさはすっかり無くなったとしても、俺はそのステージに、1万でも2万でも払うだろう。ついでに酒の一杯も奢ってやれたらいい。

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坪井遥
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