友人であった者たちと7年越しの邂逅に想うこと

中学の同級生たちと会う機会があった。
成人式の時から会っていない人もいて、7年ぶりのことであった。

ふと、こんな事を思ったことはないだろうか。
昔の友達は今や友達とはいえない関係性だ
かくいう私もそういう考えを持っていた。
もう会うことのない人を友達とは呼べない。
相手も自分の事を忘れているだろう。
昔はよく遊んだけれど大人になってからは全く会っていないから。
などと心が読み取れない事を言い訳に遠ざけようとしていた。

だけれど、久し振りに会えば昔にタイムスリップしたかのように話し合える自分がいた。
タイムマシンは人工的に作れないけれど、頭の中には備わっているのではないかと思える程である。
平野啓一郎さんの作品で度々出てくる「分人主義」がこれなのかと思ったりもした。
7年間も会っていなく、自分では忘れてしまった人間関係も、心の奥底では覚えていて、箪笥の引き出しを開けると彼彼女らとの人間関係が綺麗に整頓されて残っている。
そんなところにあったのか、と人間関係と同じようにそれぞれの思い出も溢れてくる。
とても飲み屋一軒分では到底収まらない量の情報が無限に溢れ止まらない。
気づけば中学生の頃の雰囲気が出来上がっている。
それぞれに家庭を持って父親、母親として生活している彼彼女らも中学生の頃と変わらず接してくれている。
時間が上手い具合に灰汁を掬ってくれて芳醇な香りだけを届けてくれる。
当時はめちゃくちゃだと思えた事も楽しく話せるのは、まさしく時間のお陰であろう。

翻って頻繁に会う友達の事も考える。
その友達とは頻繁に会うから溢れるような思い出もない。
しかし、現状で語り合えるリアルとその先の工程がある。
その関係性は今の自分を支えてくれている事に気付く。
現行の友達と呼べる人は数少ないが、彼らは私を形成していく上では必要不可欠な存在であると思う。

昔の友達も今の友達も同じように友達。
過去、現在、未来をそれぞれが自然と役割分担している。
それぞれがどの様な道を歩んでいたとしても、同じように共に歩んだ道は変わる事なく残っているものだ。
そして、歩く道を作り上げていく仲間もまた大切な存在だ。
友達はほとんどいないと思っていた私であるが思いの外、関係性を保ってくれている仲間がいた。
これは新年早々に素晴らしい発見であった。

2018/01/05 朝帰りの記録

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