書くことは自分を大切にすること。言葉を探すことに意味がある。
昨日、久々にまとまった量の文章を書いて思いました。
やはり、文章というものは自分に向けて書いてるんだってこと。
小学生の時、何気なく書いた作文やその題名を先生に幾度か褒められて以来、書くことが好き。
ぴったりの言葉を探すという作業がまず好きだし、その後の推敲作業もリアルな手触り感が好き。
言葉を探すことそれ自体に意味がある
書くという行為は、その時の「自分」をある枠組みで切り取って記録に残すこと。
言葉にしたい想いを表の世界に引っ張り出して来ること。
そのために書く。
結果として上手くいくかどうか、自分の想いがしっかりと言葉として表現できたかどうか。
そこはおそらく副次的な話であって、あまり大切ではない気がする。
書くということ、その営み自体に意味があるんだと思う。
それは丁度、掃除というものががキレイ、汚いではなく、掃除という行為そのものに意味があるのと似ている。
書くことを通して、「自分」の中を覗きにいく。そこにある掴みどころのないものに何とか形を与えようと試みる。色や素材やサイズがぴったりの服を探すように、これだという言葉を探す。探し続ける。
日本酒も同じだ。香りを嗅いで、口に含んで、そこにある多彩な味わいに対して、言葉という形を与え表の世界に持ってくる。
そんな営み自体に意味があるんだと思う。
そんな営みによって、その時々の自分という瞬間をしっかりと見つめる。
そうして、自分を大切に扱う。
書くという行為は、自分を守ること、大切に扱うこと。
だから、
書くこと自体に意味がある。