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これからの「国際交流」の話をしよう

僕には韓国語だった。

3年ほど前、当時の仕事で頻繁に韓国へ出張していた。関空から韓国 仁川空港へ向かう大韓航空の機内、乗客のおおよそ半分は韓国人、残り半分は日本人という割合だったと思う。
機内食が配られる時間になり、韓国人のキャビン・アテンダントが僕の2つ手前に座る韓国人には韓国語で、一つ手前の日本人には日本語で「鶏肉か、魚か」のチョイスを尋ねている。とても流暢な日本語だ。

僕は「鶏肉」にしようと決めて自席のテーブルを準備していると、僕に向かって聞えてきたのは韓国語だった。韓国人に間違えられたのだ。

「あ.....日本人です。鶏肉で」

「申し訳ありません...」

別に申し訳ないことは何もない。平和な笑い話のネタが一つ増えたんだから、ほんとは僕の方から「ありがとうございます」というべき場面だ。

現地に着いて、お客さんとの打合せが早めに終了したことから、定宿の近くにある市場へ行った。現地の食材が並び、その国の雰囲気と匂いが充満する「市場」という場所が僕は特に好きで、出張の空き時間に限らず、海外旅行でもよく訪ねる。

その時は、粉末状の唐辛子を買い求めに市場を訪ねた。寒い季節だったので土産に買って帰って家で鍋にでも使おうと思ったのだ。野菜や肉が並ぶ通りを抜けると、穀類や調味料の類を扱っている小さな商店を見つけた。ここなら粉末状の唐辛子があるかも知れないと、店内を見回すもなかなか見つけられない。

男性の店員さんがいたので、尋ねてみた。僕は韓国語が話せないので、手持ちのスマホをネットに接続し、Googleの翻訳画面を開いて、

「粉末の唐辛子を探しています。鍋に入れるものです。」

と、店員さんの目の前で日本語で入力する。すると、その日本語の真下に韓国語の翻訳がすぐに表示された。

そうしてスマホで翻訳を試みる様子の一部始終を、店員さんが珍しそうにじっと眺めている。僕もその店員さんの様子を見て、「適切に翻訳されなかったんだろうか」と少し不安になる。

店員さんが口を開いた。

「えっ.....日本人なんですか!?あぁ、びっくりしました...」

僕もびっくりした。そして、店員さんが逆に日本語で話してきたことに笑ってしまった。僕は店に入ったときから、その店員さんから韓国人に間違われていたのだ。まさか日本人とは思わなかったと。「韓国人であるはず」の僕が言葉を発せず、代わりにスマホで頑張って翻訳しようとしているから、何をしているのか理解できなかったと、流暢な日本語で教えてくれた。

2人でひとしきり笑った後、無事に粉末の唐辛子を購入した。

定宿に戻り、ロビーでコーヒーを飲みながらそこのおかみさん(顔馴染みの女性社長)と話をした。おかみさんは英語も日本語も話さないので、会話は韓国語と日本語の自動翻訳によるLINEでのトークだ。

来る途中、機内で韓国人に間違われたこと。市場で日本語のできる店員さんにも韓国人に間違われて驚いたことを手短にテキストで伝えた。おかみさんが真剣な顔で頷いている。話は通じているようだ。でも笑いはない。

続けてテキストで聞いてみた。

「僕、やっぱり韓国人に見えますか?」

翻訳文を見たおかみさんが、改めて僕の顔を見て真剣な眼差しで品定めをした後、LINEの画面上に韓国語を打ち込んでいく。その韓国語が日本語に翻訳されていく。

「あなたは、ピュアに韓国人の顔です」

テキストでそう教えてくれるおかみさんの顔が真剣過ぎて、その背景が分からなかったけれど、そのメッセージが僕にとっては面白くて、なんだかその場の空気が、電車の中で好きなお笑いコンビの漫才をyou tubeで見ながら必死で笑いを堪えている空気とよく似ていて、僕は我慢できずに笑ってしまった。

おかみさんも僕につられて少し笑ったが、すぐに真剣な顔を取り戻し、もう一度さっきの翻訳文の画面を示した。「あなたは、ピュアに韓国人の顔です」と。

そこまで真剣に「韓国人である」ことを伝えられると、なんだかそれはとても光栄なことのように思えてきて、ぼくは思わず姿勢を正して、

「ありがとうございます」と、テキストで伝えた。


日本に戻ってから、僕はこれを自分の「定番ネタ」の一つとして周りによく話をする。笑いが起こる。別に誰も傷つけない、平和な笑いだ。その笑顔を見て、僕も少し嬉しいような気分になる。

そして、考えてみた。これは韓国の方にとっても決して悪い話ではないのだろうと。自国の人と判別がつかないほど似た顔の外国人と接する、交流するというのは、決して気分の悪いものではないだろうと。

韓国人に似た顔の僕という存在が、ただそこに居るだけで、日本人と韓国人の間を取り持つ「媒体」になれるのなら、これは全く悪くない話だと思った。何も難しいことはない。ただフラットな気持ちで、そこに居ればいいだけなのだ。

そんな身軽な個人としてのあり方は、政治や歴史やそれに伴う感情といった複雑な世界をある意味で軽々と超えていけるのではないかと思った。

そう思うと、僕も少しは韓国語が出来たほうがいいような気がして、通勤の行き帰りで2週間ほど集中的に勉強した結果、ハングルが読めるようになった。会話もほとんど出来ないし、知らない単語が99.9%以上の状態ではあるけど、少なくとも韓国の街中で食堂に掲げられたハングルの看板を見れば、そこが何屋さんかぐらいは分かるようになった。


「国際交流」のきっかけは予想外の角度からやってくる。何も難しいことはない、ただフラットな気持ちでそこに居ればいい。僕らの中には既に「国際交流」のための要素があるんだから。

世界の繋がりを、自分を通して実感できる感覚は貴重なものだ。平和ボケだとお叱りを受けるかも知れないけど、ジョン・レノンが昔『イマジン』で歌ったように、すべては想像することから始まるのだ。

想像すること。僕らの中には、世界と繋がる要素が既に存在しているということを。


韓国出張の数週間後、今度は別の仕事で中国へ出張に行った。中国の空港で国内線に乗り換える、パスポートチェックの場。空港の担当職員との間で、英語で受け答えする同僚たちを待って次は僕の番。

僕には中国語だった。

ここでも世界は繋がっていたようだ。

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