「自分と違う」から生きてられる
「社会」は独立してそこにある。
自分の思いや気持ちとは別に。
自分がどう感じるか、どんな気持ちになったのか。自分を大切にするとは、そのような自分に「だけ」生じた感情を大切にすること。
一方で「社会」、そしてその規範(こうあるべき)は自分の気持ちや感情とは別のところにある。社会はどうすれば円滑に回るのか、「円滑」の一員として自分はいないかのように規範は出来上がり、ルールとして社会の「みんな」に共有され運用されていく。「こうあるべきだ」という規範は、自分が感じた感覚との距離とは関係なく自分に迫って来て、時に自分を苦しめる。場合によっては、社会を渡り歩くにあたってとっても大切な自己肯定感を損なうことになる。
自分を大切に守ってくれるはずの「社会」が、自分が最も大切にするべき感情(自分が感じたもの)とは別のところでドヤ顔をしてくる。周りの人たちもその「ドヤ顔」の空気を「綺麗に」吸い込んで、「そうでしょ?」と迫ってくる。
誰も悪くなくて、誰かを傷つけようとしてそんなことはしていない。
全ては社会を「円滑」に回すため。
でも、「社会」は、「空気」は、自分を傷つける。
葛藤をもたらす。
・周りに迷惑をかけないよう。
・このように振舞うのが「正解」。
・いつも明るく、元気よく。
どれも正解だと思う。
人はあるきっかけによって関心を抱き、そこに価値を感じて行動する。
その関心の、価値観の声は小さくて、その個人の内面にどのような契機でもってどのような関心が生じて生きてきたのか分からない人に対峙するとき、言葉の前に、どのように振舞うのか。正解は無い。
様々な契機によって多様な関心を持つ人々に、つまり「社会」に対峙するにあたってどのように振舞うのか、その最大公約数を想像することはとても大切だ。
頭ではとってもよくわかる。
明るく元気よく「迷惑」かけないように。
でも、そのような社会的正解と、あなたの関心、そして価値観には関係がない。あなたの感情が、そんな社会的正解に共感できるかどうかは全くの別問題だ。周りの「みんな」が「それが良い」と思うことと、あなたも「それが良い」と思うことの間には何の必然性もない。
だけど、「社会」は、その運用者たる「みんな」の力は、あたかもそれが本当に正しいことかのようにあなたに迫ってくる。そうであることが「正しい」ことで、そこから外れるのは「正しくない」ことだって、あなたに迫ってくる。
社会は独立してそこにある。
あなたの価値観とは別に。
あたなの感情とは別に。
社会は、社会が求めること(こうあるべき)と、あなたの感情との一致を求める。そして、社会的な規範とあなたがどう感じるかは、いつもすれ違う。
だから、いつも葛藤がある。
あなたの中に「こう感じる」「こうしたい」があれば、その思いは社会的正解との間にいつもずれを生じさせ、それがそのまま葛藤になる。
つまり、葛藤とは自分の思う素の感情と社会的正解とのズレの大きさのことであり、それはつまり、あなたの生きるエネルギーのことだ。社会的規範(こうあるべき)との差にある、その大きさを示すものだ。
だから、葛藤を感じたら、「こうあるべき」の規範的な力に違和感を覚えたら、どうかその感情を大切にしてください。
その葛藤、違和感、モヤモヤの大きさこそがあなたの生きるエネルギー。生きたいという力の大きさなんだから。
あなたが「こうありたい」「このように感じている」と、社会としての「こうあるべき」の間にはいつもズレがある。そのズレの大きさがあなたの葛藤、違和感、つまりはエネル―の大きさなんだと思う。
だから、大丈夫。
モヤモヤして葛藤して納得できなくて、夜中に思わず叫んでしまいたくなっても。それこそがあなたの生きるエネルギー。
自分を大切にするとは、自分「だけ」が感じた葛藤を大切にすること。そのモヤモヤを大切にすること。
それこそが自分の生きるエネルギーなんだって肯定してやること。社会的な正解とはズレているから「こそ」、生きていけるんだってこと。
そして、自分だけが感じた、そんな「エネルギー」を少しでも表現してみてください。そんな表現を受け止めてくれる人が、実はほんとの身近に存在するってことに気付くと思います。
言葉にならない葛藤を、言葉にならないままに外に出すこと。
それを受け止めてもらうこと。
ただ聞いてもらう、そのほんの小さな力を信じること。
子供時代から学校でも家庭でもいつもモヤモヤして、もう要らないってくらいに、全てをリセットしたい!ってくらいに葛藤して。でも、大人になって、この歳になってそんな経緯を思いを吐き出したらだた受け止めてくれる人がいて。
そうしたら、自分を最大限に肯定してあげることができた。
そんな経験をした自分なら、葛藤の、モヤモヤの、その生きるエネルギーを肯定してあげられる気がしてます。
生きてるだけで意味があるって本当のこと。
葛藤やモヤモヤの大きさだけ、自分のことを肯定してあげられる。
物事の意味は、後から振り返った時に初めてわかるもの。だから、生きているだけで意味がある。
葛藤に、そのモヤモヤに。
ちゃんと「意味」があるから。
生きるというのは最高に面倒で、だから最高に素晴らしいって、今ならそう思えます。