それは喪失ではなく永遠なんだと思います。
ぼくが子供時代を過ごした関西の田舎。最近、日本酒を口にして「自然」を感じるとき、頭に浮かぶのはほぼ毎回その田舎の風景。
ぼくが家族で住んでいた家は今は無く、そこには別の人が別の家を建てて住んでいます。周りの家や住んでる人はぼくの子供時代のまま。風景も同じ。田んぼと畑が広がって、雄大な山々に囲まれて。
大学に入るまでそこに住んでました。
ぼくが社会人になった頃、両親はもう少し便利な場所へということでその家を引き払って引っ越し。それから数年後くらいだったと思います、元々住んでた場所を訪れたのは。
ぼくの住んでいた家は取り壊されて、全く別の新しい家が建ってました。周りの風景はなにも変わってないのに。
ああ、もう自分の住んでいた家は無くなったんだ。子供時代を家族や近所の友達と過ごしたあの家が、近所のおばあちゃん達に見守られながら過ごした時間、あの家がもう無い。
子供時代、友達と家の周りをガムシャラに自転車レースしたり、夏を迎える頃には蒸すほどの緑の匂いの中、田んぼのタガメを虫取り網で沢山集めたり、近所の神社にある林でカブトムシを捕ったり、家の前で父親とキャッチボールをしたり、雪が降れば家の庭で雪だるまを作ったり。
今では誰だか知らない人が住んでいるその家の前に立って、そんな時間はもう二度と戻ってこないという事実に何とも言えない気持ちになりました。
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なんとも言えない懐かしい気持ちと、そんな時間は二度とやってこないという寂しさ。
自分の住んでいた家はもう無い。思い出の詰まった家を見ることはもう出来ない。
喪失感、というのはこの感情を指すんだと思った。
引越しても、誰か他の人が住んでいたとしても、家は形を変えずにそこにあるもんだと勝手に思い込んでた。
全く姿の異なる家になってるのを見て、周りの家や住んでる人たちは同じであることを見て、なんだか自分だけが世界から取り残されたような、そんな気持ちになった。
喪失。その言葉をとことん噛み締めてみた。
同時に眼の前に浮かんでくる当時の心温まる思い出を静かに味わってみた。
家族や近所のおばちゃん、おっちゃん、おばあちゃんたちからもらった愛情、温かな眼差しを味わってみました。
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そして、気づいたこと。
それは喪失なんかじゃないということ。それら心温まる思い出たちは、永遠にぼくの中で保証されたものだということ。
その時間はもう二度と戻って来ないという厳然たる事実が、ぼくの大切な思い出を永遠に保証しているということ。
記憶の中にしっかりと刻まれた、今のぼくを作り上げる上で欠かすことのできない過去の時間。もう二度と戻ってくることはない時間。
それは人が生きるうえで欠かすことのできない、思い出というもの。
それは喪失ではなく、永遠なんだと思います。