思ったことを思った順に書いた。

自己分析は心が健康なときにするに限る。

生きていると、楽しいことが多い。楽しもうと思って向き合っているからだと思う。同時に、どう頑張っても楽しめないことからは逃げているからだと思う。

 悪いオーラをまとわない人とのコミュニケーションは楽しい。私が、楽しむための方法を知っているからだと思う。傾聴して、おおげさに笑えば失敗しない。「傾聴しておおげさに笑おう」と思って会話に参加している訳ではないが、振り返ればそうしている。笑おう、と思って笑っているわけではないということは、自分は楽しめているんだろうと思う。良いこと!🎶

 これが、笑おうと思って笑っていると気づけたときは、どう頑張っても楽しめない相手だから、逃げる。相手には悪いけど、逃げるに至るまでに私にかかった負担も大きいから、トントンだと思っている。逃げてしまえばあとは楽しい。

 前の段落は必要ないのに書いてしまった。書こうと思っていたことを書く。
 話を聞く側にいる間は失敗しないので、コミュニケーションが楽しい。しかし、話す側にいると、かなり高い確率で失敗しているかもしれない。

 
私は、思考のプロセスを辿るのが好き。言葉の使われ方などに関する気づきが好き。多くの人は、こういうことが好きじゃない。だから私の話を聞いていても楽しくないと思う。コミュニケーションが成功することが好きなので、あんまりこういう話し方はしない。ただ、楽しくなるとついしてしまう。だから、聞く側に立つ時より、話す側に立つ時の方が失敗してると思う。

私が好きな話、及び好きな話し方を、気を遣わずに受け止めてくれる友人は、今のところ少なくとも1人いる。ありがたい。

どういうことが書きたかったんだろうか。多分、ぼんやりまとめると、私の人生は80%くらい楽しいってことだと思う。

・・・
電車に乗ったので続きを書いてみる。
失敗を避けたいという理由から、基本的に話は聞く側だが、家というか家族と話す時はそうじゃない。話す側、というよりかは、私しか話していない。喋っていない。

私はずっと、言葉の意味通り、ずっと喋っているが、家族は私が話すことを何も聞いていない。私が喋る間はだいたいTwitterを見ている。だから、自分がしたい話をする。友達には遠慮してできない話、向こうも聞いてないから、こちらも遠慮せず話せる。これは、良いことだと思う。けど同時に、悲しいような気もする。やっぱり私の話は聞けたもんじゃないんだろうな。と思う。

最近は、ゼミに参加している。同じゼミの人は、興味関心があることが近からず遠からずであるから、私も向こうの話を聞くし、私の話も聞いてもらえる。そういうのは、結構良い。

もう薄ら文面に表れてしまっているから言ってしまうが、愚痴である。
昨日、おもしろい日本語、みたいな本を買った。まだ読んでいない。今朝、金田一先生が日本語を教えてくれる番組をNHKで見た。「自分が知っていても、相手が知らない言葉を使うのは良くない」みたいなことを仰っていた。
本当にそうだと思う。私が知的好奇心を満たしても、それは誰にも共有され得ない。言葉なんて、取り入れたところで使わないと無くなってしまうのに、使う機会は与えられない。そういうことにモヤモヤして、何か言葉を使おうと思ってnoteを書き出したのだ。思い出した。

いや、最初に書こうとしていたことは、もっと違う内容のはずだった。冒頭の文章と最後が対応していないからそう思う。

今はじめから読み直してみた。何が言いたいんだろう、この人は。なんだかよく分からないが、ひとつわかったことは、自分にとって都合の悪いことを考えるとなんだか気分が滅入ってしまう。やっぱり、自由な思考が許される時間には楽しいことだけ考えるのが良いのだろうな、ということが分かった。定期的にわかった。と思っているので、馬鹿である。

そういえば、以前友人とランダムな単語を3つ挙げ、15分で文章を書くチャレンジをやったのだが、あれが結構楽しかったのでまたやりたい。稚拙な文章しか書けないので完成作品を見ると恥ずかしいが…LINEが来たのでここで終わる。次はもっとまとまった文章が書けるといい。

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