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ありのままでは・・

先日、小学生くらいの子供の相手をする用があった。ちなみに、私は(子供も含めて)年下が昔から苦手だ。

しばらく相手をしていると、その子がちょっとしたミスをして不機嫌になるということがあった。わざとらしく大きな音を立てたり、物を振り回したりし始めて、もともと子供嫌いなのも相まって勘弁してくれよという気持ちになっていた。

挙句の果てには「ぼくね、今すごくピリピリしてるんだよ。機嫌が悪いんだよ。」などと言い出すので、いよいよこちらも苛々してしまって、「ピリピリしているとか機嫌が悪いとかいうのをわざわざ露わにするのは、子供のやることだよ」と言ってしまった。すると、「でもさあぼく子供だよ」と屁理屈を返され、本当に屁理屈って誰のためにもならないよなと思いながらその言葉は無視した。

失敗してしまって悲しい、でも悪いのは自分だとわかっている、みたいなやり場のない気持ちを受け止めずに打ち返してしまう自分も大人じゃないのだが、苛々するものはしょうがない。



私が年下を苦手とするのには理由がある。それは自らの過去の失敗を思い出させるからだ。苦心して知識を蓄え、それなりに倫理観を養い武装する前の、裸の自分を思い出させる。子供といると、そうやって苦労して着込んだ鎧をバリバリと剥ぎ取られるような感覚になる。


成長すればするほど、何かを学べば学ぶほど、ありのままの自分は褒められたものではないということがわかってきた(今の自分も褒められたものだとは言えないが)。こんな思いを抱えているのが自分だけだとは思いたくなくて、そもそもありのままでいて許される人などほとんどいない、と考えるようになった。服を着ずに外を歩いていい人がいないように。

幼なじみには心を許せるという人が多いのは、長い時間を共に過ごしたということももちろんあるだろうが、その人の本質を隠しようがない時期を知っているから、というのも大きいと思う。幼なじみや、小中学校時代の友人と大人になっても付き合っていける人は、自分の核みたいな部分に負い目のない人だと思う。ありのままでいていい人、とも言えるかもしれない。私はそうではない。



とにかく、私は自分の核みたいな部分に対して卑屈であるから、子供を見るとたいていの場合勘弁してくれという気持ちになる。恥ずかしくてしょうがないのだ。こういう恥ずかしさの外側にも何かを纏える日が、来れば良いのだが・・・。

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