持つ者と持たざる者
三島由紀夫の『不道徳教育講座』を読んでいたら、こんな文章があった。
「みのるほど頭の垂るる稲穂かな」などという偽善的格言がありますが、みのればみのるほど頭が重くなるから垂れて来るのが当り前で、これは本当は、「みのるゆえ頭の垂るる稲穂かな」と直したほうがいい。高い地位に満足した人は、安心して謙遜を装うことができます。
謙遜するにもそれなりの資格が要るということだが、確かにそうだ。相手に褒められてもいないのにする謙遜は特にそうだと思う。
たとえ褒められた時であっても、私は返す言葉が見つからなくておどおどするということが多いけれど、無意識にこういうことを考えているからかもしれない。このような指摘を見たことでかえって安心した。褒められたら下手に謙遜するより素直に感謝を伝えるようにしたい(嬉しいことは本当なので)。
これでもう一つ思い出したことがある。
最近、『愛していると言ってくれ』というドラマが再放送されていて、よく見ている。このドラマは、女優の卵・紘子と、聴覚障害のある画家・晃次とのラブストーリーだ。ふたりは普段、手話で会話する。
ふたりで電車に乗って移動するシーンがある。車内で手話で話していたら周りの人にジロジロ見られて、晃次はそれに耐えられずに「君まで耳が聞こえないと思われるからもうやめてくれ」と言う。紘子は「そんなの平気よ」と言うのだが、そのあとで晃次がこう言うのだ。
「平気なのは君が本当は耳が聞こえるからだ」
この言葉は私にとってかなり重く、ショッキングだった。
紘子は正直で真っ直ぐで邪気のない、可愛らしい女性だ。「平気よ」と言ったのも100%善意からである。こういう善良さですら人を傷つけるのだ。
「持っている」人間にとっては想像できない無神経、というのは多々あると思う。例えば、以下は先ほども登場した『不道徳教育講座』からの引用である。
金持というものは、いくらケチをしても、人から「やむをえざるケチ」「貧ゆえのケチ」だと思われる心配がない。だから正々堂々とケチが出来ます。
私はこれを読んだとき、村上春樹の『ノルウェイの森』に出てくる、小林緑のセリフを思い出した。
「ねえ、お金持であることの最大の利点ってなんだと思う?」
「お金がないって言えることなのよ。」
これらは言っていることは同じだが、緑のセリフは「本当にお金がないから、お金がないと言えなかった」という、より悲壮感のある意味だったと記憶している。単に「お金がない」と言うだけでも実は資格のようなものがいる。
私も学生時代は口癖のように「お金がない」と言っていた。もちろん本当にお金はなかったのだけれど、それでも平気でそういうことを言えるのは実家が裕福だったからかもしれない、もしかしたらそう言えない人は私の周りに沢山いたのかもしれない・・・と自分の無神経さを反省した。
以上の例は、どれも源流は同じところにあると思う。立場によってできる発言・できない発言があり、持っている者には思いもよらない、持たざる者の事情がある。そのような違いを想像しようともしないことが「無神経」に発展するのだ、と肝に命じておきたい。