「努力が足りない」の意味
先に言っておくけれど、努力の量を比較したりそれを結果と結びつけるようなことには昔から懐疑的である。
なぜなら、あらゆる意味で努力ははかれないと考えているからだ。
ひとつは、その人のことを生まれてから死ぬまで四六時中監視することはできないという観点からである。放課後も学校に残って勉強をしている人を「努力している」と言うことはできるけれど、授業が終わるとさっさと家に帰る人を「努力していない」とは言えない、ということだ。
さらに、「努力」を目で見ることができたとしても、その「努力」のハードルが人によって違うという理由が挙げられる。
問題集を10ページ解き終えるスピードは人それぞれ違うし、それを行う心理的・身体的負担も人それぞれ違うということである。
また、側から見ると信じられないくらい努力しているようでも、本人からしたら好きなことを納得のいくまで極めているだけ、というのは一流の人によくあるケースだ。そう思えること自体が才能なのかもしれない。
では努力の「質」は?という話にもなる。がむしゃらにやることが努力ではない、考えてやらないと努力とは言えないみたいな話はよく聞く。
しかし、考えて効果的な努力ができるのは環境や運(よい指導者に出逢えたとか)による部分もある。加えて、本人の資質による部分も非常に大きい。そういう思考回路を生むシステム自体が人それぞれ異なっているからだ。
私は「どこまでが本人の責任なのか」ということをよく考える。例えば、私は幼い頃に親からよく「おまえは性格が悪い」と言われていたけれど、「現時点では遺伝と環境が全てだろうし自分には全く落ち度はないのでは」と思っていた。このように、生まれつき決まっている性質や、選べない環境というものはある。
話を戻すが、努力の量を誰かと比較して結果に結びつけるということには懐疑的だけれど、「自分はこれだけ頑張ったから成功した」と考えるのはよいと思う。相対的にではなく絶対的にという意味で。そういう成功体験の積み上げは自信に繋がる。
しかし、この逆の「努力が足りないから失敗した」はどうかと思う。先述の理由から、特に他人に対してこの理屈を適用するのはあまりに危険だと思う。
例えば「給料が低いのは良い大学を卒業して良い会社に入らないからだ。自分の努力が足りないせいじゃないか」という発言があったとする。
私は以前までは「なぜこの人は自分が恵まれているとわからないのだろう」と感じていた。答えを全部写して問題集を提出した自分より、真面目に何度も問題集を解いていた同級生の方が遥かにテストの点数が悪かった、みたいなことを、例えば公立の中学校などで経験してこなかったのだろうか。
努力だけで良い大学に入れるわけがない。良い家庭環境、お金、地頭の良さ、勉強が苦でない体質、全てが揃わないと不可能だ。これらのうちのどれだけが本人の責任によるものなのだろう。
しかし最近になって、「努力が足りない」という発言は必ずしも上記のような理由で発せられるものではないのかもしれない、と考えるようになった。私がこれとは別に考えた理由は以下の2つである。
ひとつは「自分の苦労を肯定したい」という理由である。
子持ちの人が「なんだかんだ言って子供はいいぞ」と言うのはこれに近いと思う。もちろん本当に子供はいいのだろうけれど、不自然なほど「子供なんて最悪だ、つくるべきでない」と言う人がいないのはこのような理由もあるのではないか。
誰でも苦労したら対価が欲しいものだと思う。それはお金や地位であったり、「自分は正しい」という保証であったり、さまざまである。ただ、他者を否定しないとバランスを取れないほどの苦労なら積極的に回避して欲しいと思ってしまう。近所迷惑だから。
ちなみに一流の人は「苦労」自体が「対価」になっていたりするので強い。
もうひとつは「自分と他者との間に線を引きたい」という理由である。とにかく「自分はその人とは違う」と手っ取り早く線を引いて、安心したいのだ。
成功も失敗も、その理由はいくらでも挙げられるだろうけれどほとんどは結果論だと思う。でも適当に理由をでっち上げて自分と他者との間に線を引きたい、という時に「努力」という不明瞭な指標は大いに役立つ。責められた側は何も言えない。なぜなら不明瞭な指標だからだ。
そして、「他者」が不快な存在・理解不能な存在であった場合の「線を引く」という行為は、「他者について考えること」「自分を疑うこと」の両方を放棄することに役立つ。後者は1つ目の理由とも似ている。
しかし、前者についてはあまり責められない。理由もなく不快なものというのは存在する。理論で説得されない情は確かにある。理由があったとしても、それを突き止めるには膨大なエネルギーが要る。
「考えることを放棄する」ということが良いとは思わないけれど、責めることはできない。
ところで、自分とある程度距離のあることについてうだうだ考えるというのはとても贅沢なことだと思う。
こういうことは、ある種の豊かさからしか生まれない。誰もがいつでも当たり前にできることではないと思う。
こんなことを何時間も考えていられる自分は恵まれているということを忘れずにいたい。