絶望より愛をこめて――わたしたちのみち、わたしたちの希望について
『アラサー・ア・ラ・モードS’s』
2020.2.1 あそviva!劇場
脚本・構成・出演 石井萠水
出演 左口三恵 河村若菜 中田百奈美
この絶望が伝わるだろうか?
私が涙を止める術を失って呆然と座っているところに、隣の人の笑い声が聞こえる絶望が。
彼らは知らない。これが「自分からはほど遠い物語だ」と信じている。こんな女の子たちは想像の世界にしかいないと信じきっている。それを目の当たりにする絶望だ。私たちが常日頃、どんな社会にいるかを知らず、「コミカルなシーン」をそれとしてのみ受け取る人々の多いことに――否、本当は違うのだ。
このお話を、まさに「わたしの話だ」と気づいて受け取ってしまう、「わたし(と同じように受け取る人)」の方がほんとうの問題であって、そしてそれを受け取らせているこのクソみたいな社会こそが、全ての女の子を不幸にする根源なのだ。
今ここでは性暴力の実態を詳しく述べることはしないので、各位こちらのリンクや内閣府の調査結果をあたってほしい。とにかく、舞台の上の1人と1人と1人は、幼いころから性暴力を受けており、アラサーという失われつつある「若さ」という幻想を武器に、自らの身体を切り売りするしかなくなった女性たちだ。これは現代日本女性版の、『暴力の歴史』といえる作品である。
1人は、いわゆる「素人撮影会」(反吐が出るような単語だが、そうとしか言いようがないのでこのように表記する。これから出てくるさまざまな語彙は、おそらくすべてが唾棄すべきおぞましさに満ちていることを先に警告する)のモデル・小白(こしろ)。幼少期に性的虐待を受け家出少女となり、現在は様々な小女性・処女性を見る人に与えやすいコスチューム(女児服、ぬいぐるみ、ランドセルなど)に身を包み、自分を取り巻く「カメコ(カメラ小僧)」たちに向かって様々なポーズをとることでお金をもらっている。もう1人は、単親の自殺により施設で育ち、職場の人間関係に悩まされうつで休職中、日々の「金銭的サポート」を求めるパパ活女子・雪乃。公的支援を受けるのも一人では難しく、逼迫する生活のなかハンバーガー屋で待ち合わせた相手に、開口一番「ホ別2ノーマルYSPなし(※検索しないでください)でお願いしたいのですが」と畳みかける。最後の1人は、幼少期に実父から性暴力を受け、いわゆるセクキャバで働きつつホストの彼氏と同棲しているものの、いずれは高卒認定と通信の勉強をしてまともな「昼職」につきたいという願いを利用され、男性の家に連れ込まれてお酒を飲まされるばかりの姫果。
こういう人を、見たことがない、聞いたこともない、というのは、あまりに楽観視がすぎるのではないか。そうやってわたしは憤り、悲しみ、嘆き、そういう感情がないまぜになりながらも、それを肯定してしまう罪を抱えている。本当は、「誰か!早く来て!」と叫びだしそうだった。誰でもいい、なんでもいい、とにかく今すぐ彼女を助けて!口からこぼれそうになったけれどなんとか堪えた、それこそがわたしの「罪」だ。目の前で彼女たちを見殺しにしたのだから。今回の芝居では石井萠水扮するサクセスカンパニーの手先(?)が担ってくれた「ちょっと待った!」、それが唯一、現実世界で起こりえないことなのだ。つまり、本来は「演劇の上では死んだけれど役者は死なない」というセオリーが、「役者は助かったけれど現実の女の子は死んでしまうかもしれない」という恐ろしい現実に逆転してしまうのだ。彼女たちによって読まれる『白雪姫』は、りんごの毒で死んでしまうところまでなのだ。王子なんか迎えにこない。懸命に働いて働いて、そのあげくに目の前の甘い果実に騙されて、結局は毒を飲んで終わりのお話。なんて醜いストーリーだろう。けれども、だからこそ、演劇としての「希望」がある。
ついに気づいた姫果が叫ぶ。「――やっぱおかしくない?!」
これだ、これを待っていたのだ。彼女たちはついに「目覚めた」、それは天啓がひらめいたとか真面目になろうと思い始めたとかそういう意味ではもちろんない。彼女たちは、「バカをみる子ども」ではなくなったのだ。ようやく自分たちが「搾取されている」と気づいたのだ。与えられた変身パクトは「知恵の果実」であり、彼女たちはこの時に初めて、1人と1人と1人から、連帯する「3人組」になったのだ。1人では重くとも、同じ場所に立つ仲間を見つけた。そして、まるで味方のように付け入る悪に立ち向かう。「わたしたちは許さない」。それが彼女たちの世界へのメッセージなのだ。搾取する小悪党や、見て見ぬふりする人、「自己責任」ということばで「見えざる暴力」をふるってくる人、すべての悪を拒絶する。そんなふうにわたしたちは連帯できる。わたしたちは、何をされたってもう傷つけられたことを許さない。許せない。そういうことは、どんな人であれあって当然なのだ。女性に限ったことではない。許せないものは許さなくていいのだから。
そして、おそらく演劇というものは、そんなときのためこそあるのだろう。どうしようもない怒り、やるせなさ、恥ずかしさ、もどかしさ、絶望……それらを丁寧にひろい集めて、明日のためのみちをつくること。それがわたしたちの希望になり、誰かがいつか笑ってくれれば、ほんの少しの「救い」になる。ここまでが、この芝居の全容である。ここからついつい「受け取りすぎてしまうわたしたち」だが、いつかみんなが、そんな風になれるだろうか。その答えはすぐには出ない。この作品の効用とは、きっと、この先の人生の中で暗いみちを歩いているとき、ふいに現れる灯りのようなものなのだから。
2020/02/02 美音子
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