お姉さんみたいな人 (皐月物語 81)
藤城皐月が図書室から教室に戻ると、前の席の栗林真理が皐月の席に座って勉強をしていた。真理が自分の席以外で勉強しているのを皐月は真理と同じクラスになってから初めて見た。皐月は仕方なく真理の席に座って、後ろの席に身体を向けた。真理にちょっかいを出してやろうと思ったが、真剣に漢字の問題集を解いている姿を見ると、遠慮のない相手とはいえさすがに気が引ける。
「なんで俺の席で勉強してんだよ?」
真理は書きかけている漢字を書き終わると、手を止めて顔を上げた。あいかわらず真理はシャープで整った顔をしている。さっきまで図書室で会っていた入屋千智とは違う魅力がある。
「ごめんね、場所借りちゃって。さっきまで絵梨花たちと『るるぶ』見てたんだけど、自分の席に戻るのがちょっと面倒になっちゃって」
「そうか」
「絵梨花の隣だと勉強が捗るんだよね。なんか落ち着くっていうか」
「俺のいない時なら、この席好きに使っていいよ」
皐月と真理が話し始めたので隣の席の二橋絵梨花も勉強の手を止めた。絵梨花も中学受験をするので、昼休みはいつも勉強をしている。教室のような騒がしい環境では受験生同士で固まって勉強する方が集中できるのだろう。これからは昼休みに席を開けておいた方がいいかなと思った。
「二橋さん、ごめんね。勉強の邪魔しちゃった?」
「いいよ、もうすぐ掃除の時間だから。それに学校にいる時は受験勉強よりも学校生活を大切にしたいの」
「なんか照れるな。俺ってそんなに大切にされてるんだ」
「バカっ、あんたは学校生活か。これから皐月のこと、学校生活って呼ぶよ」
席が近くなったからだろうか、最近皐月は真理によく罵倒されるようになった。皐月は慣れていて何とも思わないが、傍から見ると真理の皐月への態度がキツく見えるようで、クラスメイトから怖がられているらしい。
皐月はいつも自分の席から後ろを振り向く真理を見ているが、今日は自分が振り向いて真正面から真理を見ている。この距離この角度だと普段とは見える情報量が全然違うし、かすかに真理の吐息もかかる。このままでは真理とキスをしたくなってしまいそうだ。
「漢字ドリルか。これなら俺でもできそうだな」
皐月は勉強全般で真理や絵梨花には敵わないが、漢字だけは負けたことがない。ただし勝ったことは一度もないが。
「じゃあ皐月にやってもらえばよかった。これ、面倒で嫌いなのよね」
「満点が取れないならやる価値あるじゃないの? 知識の抜けてるのが何かチェックできるし」
「まあそうなんだけどさぁ……コスパ悪いでしょ。何千と漢字を覚えても、試験に出るのなんて数個だし」
「そうだよな。そこで間違えると差がつくわけだから選抜試験って嫌だな。漢検みたいに到達度を測るテストならそんなに神経質にならなくてもすむのに」
「ホント、うんざり。でもやればできる問題だからやらないわけにはいかないし……。どうせ漢字の勉強するなら皐月みたいに漢検のレベル上げした方が楽しいんだろうね」
真理が思うほど漢検の勉強も楽しくないのにと思ったが、確かに99%を100%にする勉強よりはマシだ。皐月だって漢検で満点を目指してはいたが、本気で全問正解するつもりはなかった。受験勉強では完璧を目指さなければならないのなら、真理がうんざりするのも無理はない。
「そういや俺、2級取ってから漢検の勉強やってないや」
「どうせ私があげたテキストもやってないでしょ?」
「少しはやってるって。この前、祐希に勉強しているところ見られて『凄いこと勉強してるね』って言われたし。真理ならこんな問題全部解けるって代わりに自慢しておいてやったら驚いてたぞ」
「余計なこと言わないでくれる? 私が全部解けるわけないじゃん」
掃除の始まりを報せる「イン・ザ・ムード亅が校内に流れ始めた。同じ班の神谷秀真と岩原比呂志が一度席に戻って来た。この後「シンコペイテッド・クロック」「ジ・エンターテイナー」と曲が続き、10分で掃除の時間が終わる。
稲荷小学校では掃除機が導入されている。コードレスのハンディクリーナーが3台とヘッドが軽いキャニスター型が1台ずつ各教室に配備されている。箒で床を掃いて雑巾で拭いていた頃に比べ掃除時間が短くなり、児童の負担も減った。普段の掃除の時間では特に汚れたところや掃除機の使えないところを重点的に雑巾で水拭きする。
教室の黒板の横に掃除当番表が貼られている。今週の皐月たちの班の掃除場所は廊下と階段だ。廊下は放課後にお掃除ロボットを走らせるので、主に階段の掃除をすることになる。比呂志がハンディクリーナーを取りに行き、皐月たち5人は廊下の手洗い場で雑巾を濡らしに行った。
廊下に1カ所しかない手洗い場は6年生の全クラスが共用しているので順番待ちの列ができる。絵梨花が皐月に話しかけてきた。
「ねえ藤城さん、さっき言ってたユウキさんってどういう人? 私って言ってたから女性だと思うんだけど」
「皐月のお姉さん」
一緒にいた真理が嘘をついた。余りにも自然に、しかもぶっきら棒に嘘を言うので皐月は咄嗟に反応できなかった。
「へぇ~、藤城さんってお姉さんがいるんだ」
「いや……まあ、お姉さんみたいなもんかな」
「えっ? みたいなものってどういうこと?」
皐月と祐希の関係は事情が込み入っている。どうやって端的に説明すればいいのか考えていたら少し間ができてしまった。
「話しにくいことだったら別にいいよ」
「いや……全然そんなことないよ。博紀だって知ってるし。ところで二橋さんは芸妓って知ってる?」
「ゲイコ? 漢字はどうやって書くの?」
「芸術の芸に女偏に支える。意味は舞妓さんの大人バージョンみたいなものかな。もっとも豊川の芸妓は京都の芸妓とは全然違うけど」
「なんとなくなら想像がつくけど……」
「私はわかる」
一緒に列に並んでいた吉口千由紀が自信を持って言った。千由紀はわかっているような感じで言ってはいるが、文学の中に出てくる芸妓を想像されると誤解をされそうだ。現代の田舎の芸妓のことなんて世間にはあまり知られていない。説明が面倒なので皐月は話を進めることにした。
「うん。なんとなくわかってくれるならそれでいいよ。俺だって知らないことたくさんあるし」
蛇口の順番がまわって来たので、それぞれ手に持っている雑巾を水で濡らして硬く絞った。皐月の次に雑巾を絞り終えた秀真が絵梨花たちとの話に入ってきた。
「なあ皐月、お前のお母さんってもしかして今言った芸妓ってやつ?」
「そうだよ」
「そっか……全然知らなかった」
「まあ親の仕事なんて自分からペラペラ喋ることじゃないからな。正直今、話していて恥ずかしいよ」
「ごめんね。そんなプライベートなこと聞いちゃって」
「いいよ。で、家は置屋なんだけど、これも説明した方がいいね。階段を拭き終わったら続きを話すわ」
絵梨花は謝ってくれたが、元はと言えば自分がうっかり及川祐希のことを口にしたことが原因だ。今にして思えば真理が祐希のことをお姉さんだと言った言葉に乗っておけばよかったと思う。デリケートな話は関係性が深くなってから個別に話せばよい。
廊下の汚れを5人でチェックして、ロボット掃除機ではきれいにならないかもしれないと思ったところをピンポイントで拭き、教室の隣の階段まで来た。比呂志がハンディクリーナーで階段の埃を吸っていた。
「岩原氏、お待たせ」
「藤城氏、30秒遅延してますよ」
「今日の手洗い場は混雑していてコムトラック(列車をダイヤ通りに動かすための進路制御)でも捌ききれなかったよ」
「清掃は7分で終わらせましょう」
「新幹線かよっ!」
皐月たちは4階から3階までを階段と手摺と踊り場に分かれて拭き始めた。6人で掃除をするのであっという間に終わってしまった。
「ねえ藤城さん、さっきの話の続きを聞かせてもらえないかしら?」
皐月は掃除をしていれば有耶無耶になると淡い期待を抱いていたが、絵梨花がいつまでも興味を失わないことにプレッシャーを感じた。絵梨花の関心が皐月への個人的な興味なのか、それとも芸妓や置屋といった日本文化への興味なのかはわからない。ただゴシップ的な興味で聞いているわけではないのは確かだろう。
「そうだね。ええと……置屋のことか。余所の置屋がどんなのかは知らないけど、俺ん家は住込みのお弟子さんが一緒に住む寮みたいな感じかな。こんなんでわかる?」
「なんとなくだけど……」
「で、俺の母親が芸妓をやっててね、新しいお弟子さんが夏休みの終わり頃に家にやって来て、俺の家に住み込みむようになったんだ。ここまでが話の前振り」
「長い前振りだね」
「うん。で、そのお弟子さんの娘さんも一緒に引っ越してきたんだ。その人がさっき話に出てきた祐希っていう女子高生」
「女子高生! マジか、皐月。今度遊びに行くぞ」
「おう、いつでも来てくれ。ちょっと部屋が狭くなっちゃったけどな」
秀真や比呂志は1学期や夏休みに時々家に遊びに来ていたが、祐希たちが引っ越して来てからはまだ一度も遊びに来ていない。遊びに来た時も親の仕事に関しては全く話題にならなかった。
「じゃあ藤城さんはその祐希さんっていう高校生の女の人と一緒に住んでいるのね」
「まあ、そういうことになるかな……」
皐月は自分でもどうしてこんな口ごもった言い方になるのかわからなかった。絵梨花や一緒にいる千由紀に女子高生と同居していることを知られることに対して後ろめたさを感じているのかもしれない。あるいは親の仕事が芸妓だということを恥ずかしく思っているのか。さらに追及されると母子家庭だということまで話さなければならなくなることを恐れているのか。
「それならお姉さんみたいな人って言われても納得しちゃうな。真理ちゃんはその祐希さんって人のこと知ってたんだね」
「うん。会ったことあるよ」
「えっ? 会ったことがあるの?」
「おい、真理!」
「いいの」
皐月はあえて自分と真理の関係を伏せてきた。この話になるとどうしても真理の母親も芸妓だということを言わなければならなくなる。家の事情の暴露なんて自分だけでたくさんだ。
「私のお母さんも皐月のお母さんと同じ芸妓だから家族付き合いしてるの。皐月の家にお弟子さんが来た時の歓迎会に呼ばれて、その時に会ったよ」
「そうなんだ……なんか真理ちゃんまで私の好奇心に巻き込んじゃってごめんね」
「いいよ、別に。隠しておきたかったわけじゃないから。絵梨花とは一緒に中学受験するし、これから二人で話す機会が増えると思ってたから、いつか話す時が来るとは思ってた」
「じゃあこのお話はここまでにしておくね。もう後片付けしようよ。また手洗い場が混んじゃうから」
絵梨花にしては焦った感じでみんなに行動を促した。真理の手を引っ張って先導する絵梨花に皐月たちはついて行った。手洗い場はすでに混雑していた。
水道を使う順番を待っている間、皐月は千由紀に聞きたいことがあったので聞いてみた。
「吉口さんって『城の崎にて』って読んだことある?」
「あるよ」
「じゃあ『人間失格』は?」
「あるけど、どうしたの?」
「『城の崎にて』は芸妓のお姉さんに面白いって言われたから、今日図書室で借りてきた。『人間失格』は昨日たまたま知って、ちょっと興味を持ったんだ」
「そうなの……。藤城君、読みたい本が増えてきたね」
「そうなんだよ。なかなか読めなくて、ちょっと焦る」
「読書も体力がいるからね。読書特有の体力が」
「読書特有の体力?」
「そう。読書に限った話じゃないけど、同じことをし続けるのって慣れるまではキツいよね。私だとゲームなんかすぐに疲れちゃって30分もできない」
「えーっ! 俺なら朝までだってやれるよ」
「そういうこと。読書も体力が付けば朝までだって読み続けられるようになるよ」
「じゃあ読書がんばって体力つけようかな」
皐月たちの順番が来たので雑巾を洗い、教室の窓の外に干した。校舎の窓の外に後付けされたパイプが雑巾を干す場所になっている。窓際の席の子たちはきっとこの時間を鬱陶しいと思っているだろう。窓際にある月花博紀の席の周りにはいつまでも席に戻ろうとしない女子がたむろしている。その中心には松井晴香がいる。博紀の後ろの席が筒井美耶の席なので、晴香は美耶と話をしながら博紀のそばにいようとしている。皐月は面倒に関わりたくないので博紀や美耶には近づかないようにした。
先生が教室に来るまでまだ少しだけ時間がある。席に戻った皐月は寸暇を惜しんで千由紀に文学の話を持ちかけた。
「ねえ、『城の崎にて』と『人間失格』って面白かった?」
「面白かったよ。特に『人間失格』は『歯車』と同じくらい好き」
「おお……そんなにか」
「でも正直、今の私には意味がわからないところがありすぎるな……まだ子供だし」
「へぇ……そうなんだ。吉口さんでもわからないことなんてあるんだね」
「当たり前でしょ。小学生が背伸びして大人の小説を読んでいるだけだから」
「『人間失格』は小学生向けじゃないんだね。だから図書室には置いてなかったのか」
「あの小説は経験がないとわからないことがたくさんあるから。小学生の想像力の限界を超えてる」
「そうか……それは面白そうだな」
皐月は『人間失格』が千由紀でもわからない本だということに期待で胸が高まった。そんな小説を千由紀に先立って自分がわかるようになりたいと変な対抗心が湧いてきた。
皐月はそんな『人間失格』を蔵書にしている江嶋華鈴のことも気になった。華鈴は『人間失格』を読んで何を思ったのだろうか。
挿入歌
イン・ザ・ムード
シンコペイテッド・クロック
ジ・エンターテイナー