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とある歪な人間の自伝 その2

04 たくさんの傷とたくさんの…

当時、北斗の拳というのがアニメで放映されていた。どういった内容だったか、覚えている人はいるだろうか?
荒廃した世界を舞台に、拳法の達人でもあるケンシロウというたくさんの傷跡をもつ主人公が旅をする、なかなかショッキングなアニメである。
わたしもまだ抜糸もしていない縫い跡がおびただしく全身にあるので、幼稚園でのあだ名は「ケンシロウ」となった。

拳法の達人のケンシロウは、悪者を拳法でやっつける。
だから、それをマネて良く幼稚園でも喧嘩を挑まれる。この関係性は相変わらずだ。そしてわたしが抵抗しなかったことも、その相変わらずのうちに含まれる。
もっともわたしは「ケンシロウ」であっても主人公になれない。要するに敵に負ける役だ。子供の設定だからね、そこは何でもアリさ。
しかしわたしの体は傷はふさがっても、抜糸待ち。なのだが、退院したてのわたしが激しい運動をすればどうなるかなんて子供にはわからない。だから良識ある人ならば、病院を行き来したことなどすぐに察してもらえるだろう。
その度に父親に怒られるため、わたしはこれら一連の流れに辟易していたことを覚えている。

結局、何度も病院に行く事になったため、わたしは抜糸が出来るまで父方の実家に預けられることになった。

父方の実家はいわゆる良家である。大きな屋敷で、祖父とお手伝いさんが住んでいた。
わたしはその本家の唯一の跡取り、家名を正式に次ぐ唯一の男児として祖父に可愛がられた。
祖父には他に何名も腹違いの子供がいたけども、わたしの家系ではわたし以外に男児がおらず、わたしの父親が唯一男児をこさえたとして一目置かれる様になったらしい。こんなのは子供でも分かる本家での立場の問題。大人の都合というやつである。

だから…というべきか。父親にも立場がある。それは資産価値であったり、相続であったり、そういった金の問題もそうだろう。もっとも見栄の部分も多かったみたいだから、自分を作ろうことで必死になっていたんじゃないだろうか? それに腹違いの息子であったから、兄、姉に頭があがらない所もあったのだろう。
それがだ、わたしの存在一つで立場を変えたわけである。気が強くなっていくのも何となくだが理解はできる。しょうもない話ではあるけども。

しかしわたしの怪我の経緯を説明すれば父親、そして母親の立場が一変する。
その間、明確に保護される立場といったわたしの環境は日常から激変したわけだが、そこは子供だ。急に環境が変わっても、わたしの頭は到底追いつかないのだ。
それはとても酷い戸惑いようで、そして適応のできないさまは高温の知恵熱を出す。
我ながら精神の軟弱性にため息を吐きたいところだが、結局のところ今までの心労もあったんだろう。
とうとうわたしは40度を越える熱を出してぶっ倒れてしまった。

動揺する親族関係は腫物を扱うようにわたしに接し、わたしは口々に聞かされた跡取りとしての振る舞いを覚える一方。
陰では妹、母親に対する扱いの『差』が出始めた。

どうしてか? それは親族たちの主観に因るものと推察される。つまりは、こう考えたわけだ。
父親はしっかり父親の務めを果たしている。
ここでいうところの務めとは、当時の解釈からすると働いてお金を稼ぎ、役職を獲て、然るべき居住空間を構える。つまり大黒柱の役割である。
したがって跡取りの子供に負荷をかけているのは家庭の仕事が出来ない母親であり、兄を支えられない妹である。それは要するにわたしへの足枷という解釈だ。
それについて何も思わないわたしではなかった。この感覚は決して昨今の女性人権保護の観点からの意見ではおそらくないだろう。
ただただ、その考えが気持ちの悪いものに思えてしまった。その気持ち悪さの原因はすなわち、わたしの存在理由の否定からくるものだ。
ここではそうあるべし。そんな風に飲み込んでしまえばどんなに楽だったろうか? しかしわたしの精神は骨の髄まで洗脳を受けているといって過言ではないんだろう。だからその考えを見せればわたしは顔色をわかりやすく変えていたし、立ち回りをがんと譲らなかったんだ。
まさにわたしの不器用さが露呈した瞬間である。

そんな風にいままで生きてきたから、もうどうしようもない。自分が恵まれ始めると、それは居心地の悪さに代わり、わたしは極力妹と一緒に過ごすことを選ぶ。
親族に反対されながら台所に立ち、料理を作るわけだ。
男子厨房に入るべからず。そんな言葉を大真面目にいう親族を前に、わたしは簡素な料理を作り、妹と一緒に食べるのだ。贅沢な料理などいらなかった。
親族の固定観念からすればあまりにも異質で、常識を超えた行動。しかしわたしにとっての日常はこれである。

だがこれでは母親の居心地の悪さはきっと解消できないだろう。父親の居心地の悪さも解消できないだろう。
それに大人にはタイムリミットがある。いつまでもここにいるわけにもいかない父親は自宅に戻り、母親も後を追うように自宅に戻った。

一方で残されたわたしは自分のことは自分でやる。徹底した教育の賜物でもあるわたしの行動と、長男だから残された妹を世話をするのは当然と考えるわたしの日常。頑固というよりは、それを取り上げられるとわたし自身が何をしていいのか困る、そういった性質を理解した親族はどうにか、『普通にしたい』とあれこれと世話を焼くようになった。
子供らしい遊びを提案したり、おもちゃを買い与えようと買い物に連れて行ったり。
しかし、それら我儘への誘導はわたしにとってまったく別次元の戸惑いとストレスを生んだ。なぜなら、ここでも妹には何も与えられないからである。

わたしは跡取りとしての立場があるという。妹にはそれがない。親族の言い分はそのようなところだ。だからこれはその差をわたしは『認められない』というだけの話。何処までも平行線の価値観。ある意味、わたしは自分の役割に対して忠実だったし、自分と妹に対しての不平をどうしても理解が出来なかったんだ。
(現在にして思えばだが、)本家に滞在していた3ヶ月間は、親族もほとほと困り果てていただろうと思う。
こんな可愛げのない6歳児に誰がした? そう思うこと請け合いだ。

しかしただぼーっと突っ立っている日常は本家が許さない。
立ち方、座り方、食事の作法、言葉遣い、気の立て方、そういった礼節は跡取りとして必要なこととしてしっかり教育を受けたし、出来なければ折檻を受けることも度々あった。その教育も妹には適用されないことに些かの疑問を感じたが、その間に妹に向かう視線は無かったのだから、これはこれで良いことだと思った。

特にわたしは元が左利きだったので、右手で食べるとどうしても左手が疎かになる癖が抜けなくて、妹を引き合いにいつまでも怒られていたことを覚えている。
要するに妹に出来て、兄が出来ないという事実が親族には受け入れられないわけだ。
実は、この所為もあって右と左が小学生になってもよくわかってなかったことはここで伝えておく。

いやお箸を持つ方が右。お茶碗を持つ方が左。…だろ? これについては同じ教育を受けた者しか伝わらないとは思うが。

さて、本家での生活も終わり自宅に帰るとわたしを待っていたのは通常通りの日常。
一寸も変わりがない、見下される毎日が当然のように待ち構えている。

幼稚園ではわたしがいなかった間のカカシが喜び勇んでターゲットの誘導を図ったり、近所ではおおよそまともでない噂話で溢れかえっていた。
控えめに言って近所の大人たちはクズなので、噂話をまことしやかに在ること無いことをでっちあげるのが好きだ。そうやって井戸端会議の肴にしているわけだが、そんな噂話はやはり子供に伝播する。まさに実家のような安心感というやつだ。既に性根がひん曲がったわたしは虐げられることに安心感を覚えるようになっていた。

当然痛いし、涙を流すし、悔しがる。しかし心根はどうだろうか? 実際のところ、実に現実性のないものばかり。自分の事なのに、他人のような感覚。
しかし何処かでそれに安堵して、そうやって演じている自分がとても客観性に富んだものへと変わると世界は一変する。
常に自分を俯瞰してみている。常にそんな感覚に陥ってしまったわけである。

後にこれを『解離性障害』と呼ぶ状態らしいことを知る。もっとも当時はそんなこと知るわけもないし、その名前を知るのは随分と後のことである。
それに一般的に言うところのそれと大きく異なるのはわたし自身が全ての記憶を統合している点である。その事実がある以上、厳密にいえば解離性同一障害とは性質が異なるのだろう。
もっとも『それ』を診断されたのは当時から20年後だし、その時は別の病気も診断されていたから確かなことは何一つないけども。

ただ両親を含む親族たちによれば、当時のわたしは常にどこか別のところに意識があって、表面的な感情は随分とぎこちないものだったと口を揃えて言っていた。
それからわたしの変化は両親に不安感を与え、妹も物心をついたころにはわたしを別の人間としてみるようになった。やはり潜在的に恐怖を抱いたのかもしれない。もっともこれは妹の問題であり、わたしの与り知るところではないのだが、反抗期も相まってか些細なことで兄妹喧嘩をするようになった。喧嘩と言ってもわたしの食事を食べないようになったり、何か気に入らなければ父親にべったりと甘えるようになったりと打算を見せるようになった。
少なくともわたしより器用に立ち回れる妹の姿があったわけだ。

もちろん『それ』についてわたし自身は違和感を持つことはなかったし、妹が父親と母親と共に敵に回ったときも普段と変わらない日々が続く。そこに感傷はなく、ただ大げさに声を上げてみたり、泣いてみたりして、何となくその扱いの差について受け入れつつあった。多分自分の中の防衛本能に身を委ねた形に収まったんだろう。

そんなわたしの歪みが一抹の不安に感じたのだろうか、それとも単純に恐怖したのだろうか。
父親は性根の問題と断じ、よく鍛えるためと竹刀でわたしを叩き始めた。おそらくは自分自身が不安だったから、何かしらをしないといけないと感じ取ったのかもしれない。
それでもわたしがまったく別のものに変わっていくことに著しい不安を抱き続けていたに違いないんだ。これが逆の立場なら、わたしはどうしただろう?

当時は精神病など一般的でなかったし、鬱という言葉も無かった時代である。
況してインターネットや、そういった情報を収集できる媒体も存在しなかった時代だ。テレビ、新聞、そして人の話。そして理解できないモノは理解できるモノに置き換えて語られる。
それが当時のコミュニティでは当然であり、この世界で形作るものだ。

差別主義とはそういった所から、自身の正当性をもって創られたのだろう。
長いものに巻かれる世の中で、括れない異物を誰が正当化してくれるものか。つまり、わたしの家庭はわたしという差別の対象がいる家庭となった。
普通の子供ではないわたし。迫害されるだけの価値しかないわたし。両親からも愛されていないわたし。
噂はそうして誇大化し、大人たちがそう語るものだから子供がそれを真似し始める。大人がそうだと教育するんだ。

笑ってしまう。本当に、笑えてしまう。
人格の否定、容姿の否定、性別の否定、そして金銭的な否定。理由など後からいくらでも付け足すことができる。
誰だってそんな醜い差別の対象になりたくないから、笑顔で石を投げる。子供に石を持たせて、「ああはなりたくないでしょう」と石を投げさせる。
理解者もいない。味方になってくれる人もいない。

当然、妹もわたしのようになりたくはないから石を投げる側に回る。自分はそうじゃないと、あれが特別なのだと。
徹底的な孤立を強いられて、わたしはそれでもたくさんある自分の役割に準じた。もはや、わたしにあるのは役割だけなのだから当然だ。
愛なんてわからない。優しさもわからない。怒ることだってどうでもいいし、悔しいなんて思うわけもない。
でもそれを演じれば人は手を止める。少しだけ痛いのがなくなる。

それは本当に愉快で、人の顔を見てどんな表情を作ればいいのかすぐに察して、本当にそのように動いてしまうたくさんの敵にわたしは自分の役割を見出してしまった。
それがせめて自分以外に向けられないように、自分だけの役割を奪われないように、そう思いながら。

だから本当にいろいろあったんだ。
偶然にも初めて『かくれんぼ』に誘われて、「ここに隠れるんだよ」と古びた神社に捨てられていた本当に子供が入れるぐらいの金庫に押し込められ、そのまま二日放置されたり。
度胸試し、漢試しなんて言葉を変えてさ、こう言うんだよ。「仲間として認められたかったら飛び降りろ」と峠の崖から3~4mの渓流まで突き落とされたり。
ボロボロになるまでやられているのに、相手を怪我させたくないっていうわたしに対して、罠に掛かったイノシシを助けてみろよと無理難題を言われて興奮したイノシシに襲われたり。
そんなことすれば人死にだって出るかもしれないと考えればわかりそうなものだが、エキサイトした子供は気づけない。結果、相手は死ななかった。だから大丈夫。という根拠のない自信でさらに行為を過激にさせていく。しかし内容を見て良識的な判断をする大人もいる。イノシシなんかはまさにそうだった。
発起人が大人にたしなめられれば、次に起こるのは責任転嫁。

要するにわたしがそう仕向けた。わたしが生きているのが悪い。わたしがそこにいるのが悪い。
そうしてとうとう逆上した地主の子供が、畑に無造作に置いてある収穫用の包丁をもってわたしを幾度か斬りつける事件が発生した。
幸い服が少し斬れた程度で難を躱していたわけだが、わたしも無意識に車道まで下りてきて逃げ回っていたお陰で人目につき、子供は止められた。
しかし相手は地主の子供。擁護されるのはその子供であり、わたしでは当然ない。

ただ現代にして思えば「あからさまな殺しは流石に…」という判断なんだろうか。
正直いって村社会に常識など通じないし、何考えているのかなんてまったく興味がないわけだが。それでも当時はなあなあで終わって、わたしは何も知らされないまま次の嫌がらせを受ける毎日が続いた。

縫い傷も増えて、全身の痣はなくならなくて、切り傷、擦り傷は絶えなくて、外見からもその異常さは明かだったろうと思う。
だけど悪いのは全部自分で、助けてくれる人はいない。判り切った毎日。だけど、それすらもわたし自身が他人事。
誰かに助けてほしいとも言わないし、ただ何となく両親に怒られるのが嫌だったから「転んだ」等と嘘をつくようになった。

そして転機は訪れる。
それは2年後の冬、母は三人目の子供を産んだ頃の話だ。

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