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とある歪な人間の自伝 その7

09 噛みあわない言動

うつ病の看病をすると、うつ病になる。
メンヘラと付き合うと、メンタルが壊れる。
これらは通説だが真理だと思う。

わたしは壊れている。とうにそのメーターは振り切れていて2周3周と廻り回っているといっていいだろう。
それでも。こんなわたしだがだ。人並みに『救われたい』と願った。これは気の迷い、それとも未熟さか。もちろん願ったところで叶わないのはいうまでもない。
そう、叶うわけがない。わたしにはその幸運は存在しなかったし、奇跡が起きるような土壌もない。そもそも行動すら封じられるのだから何も出来なかった。出来るわけがなかった。

とにかく叶わない。その願いの数だけジレンマを引き起こす。
最初からあきらめておけばよかったのに、労働に触れてから在りもしない『もしかしたら』を期待するようになってしまった。
まったく馬鹿で愚かでみっともない。半端物の出来上がり。だからこそ、というべきか。下唇を噛み、嗚咽を漏らす。それでも甘い言葉が聞きたくて何度も何度も、絵に描いたような発狂を繰り返した。

本当に、何度も。

これが『認められること』の代償に得たものだ。笑うだろう? 人らしさを知ると、いままでの異常性が見えてくる。
「あれ? …もしかして?」などといったありもしない『可能性』に気づいてしまう。
本当はもっと報われてもいいんじゃないか? 本当はもっと違うことがあったんじゃないか? 本当なら愛されていたのではないか?
気づかなくていいものを知ってしまい、人間特有の無いものねだりが始まってしまうんだ。そして「ああ、そうか。わたしは人間だったんだ」と気づいてしまうと、もう戻れない。

何度も言うが、わたしはそういう星回りに生まれたと自負している。
これはオカルトの類ではないんだ。実績と経験に基づく、実感がわたしにはあった。
それは思い込みだと周囲はいうかもしれない。意識一つでいくらでも変わると誰かはいうかもしれない。
だけど世の中にはどうしようもなくタイミングが悪く、そして突拍子もないところから自分の意思とはまったく関係なく、自分自身の行動の全てが制限されてしまう…そんな人種がいる。
大なり小なり誰もが経験しているだろう。

例えば。
誰かと明日、指定された場所に指定された時間で行かなければならないとする。
その約束はとても大事なもので、違えることはできないものと仮定する。その重要性をわかりやすく伝えるならば『受験』などが的確だろう。

設定を簡単に構築するとこんなところだ。
浪人で1年足踏みし苦汁を飲まされた。今年こそはと意気込む、まさに一年の集大成を詰め込んだ第一志望の受験。
これはいい加減には出来ないし、それに遅刻をすればその瞬間から振り出し。そんな状況下に立っていたとする。とかね?

話を進めよう。
そうすると当日、車や自転車、あるいは電車の移動手段が使えなくなる。故障、事故、理由は何でもいい。これが最初の障害だ。
気持ちを切り替えてタクシーを呼ぶと運転手が道を間違える。揉めて時間を消費する。約束の場所へ遅くなることを伝えようとすると携帯電話が壊れている、あるいは見つからない。
何とか公衆電話で伝えようとするも繋がらない。それでも涙ぐましい努力の末、遅れて現地に到着すれば、誰もいない。
とうぜん、受験は来年やり直し。

今日に限ってなんで? 誰もがそう思う不幸な一日っては先ほども伝えたが、大なり小なり経験があると思うんだ。
こんなものは一般的に言えば『滅多に起きないタイミングの悪さ&運の悪さ』というものだろう? 
だけど、わたしのような人種は毎回のように、事あるごとに引き当ててしまう。ある意味宝くじに毎回当選するような引きの強さでね。
もちろん手に入るのは対策の為に無理して出費した後のレシートばかりさ。そういう時は大抵悪あがきするものだからね。

で。何がいいたいかというとつまり、やりたいことが出来ない。やりたいと思ったことが、欲しいと思ったことがトリガーとなって望みからどうしようもなく離れていく。
結論を言えばわたしはそれこそ30年単位でそれが続いた。じゃあ、終わったいまは幸運に満ち溢れているか? …そんなわけはない。現在も緩やかに継続中であり、何か希望を持てばだいたい叶わない。いまは付き合い方がわかってきた、といったところだ。

では、当時の時分に話を戻す。
どんなに予防線を張ったって、どんなに備えたって、…人間には限界がある。個人であれば猶更だ。どんな想像しても、想定しても、勘を働かせても、足元から崩されることだってある。
最初から叶わないと設定されているのだから、目的が果たされることはない。

それを努力不足というのなら、…その定義に当てはめるのなら、わたしは誰よりも自堕落な生活を続けていたということになるんだろう。
つまり、わたしは怠け癖のとても強い、ダメ人間ということになる。
事実、そう言われたし、そうであると決めつけたイメージを誰もがわたしに叩きつけたわけだ。

まったく笑ってしまうよ。こうなると腹の中から何度も低い笑いがあふれてどうしようもない。
そんなどうしようもなさに神経が苛立つのは当然の流れだろう? だってそうだろう?

わたしは目的を叶えるための努力が圧倒的に足りないらしい。行動すら封じられるのにだ。だからそれが、その目的が、どんなに重要な問題だとしても、わたしがそれを叶えることはできない。周りが指摘する『努力不足』で出来ないのだ。それがどんなに自分の叶えたい欲求だったとしても、努力が圧倒的に足りないから叶わないのだ。

こんなおかしな話があってたまるか。…そう思っても事実そうなのだから、どうすることも出来ない。
望みは果たされない。夢は踏みにじられる。愛は穢される。どんなに願っても、夢を見ても、信じても、思い通りに進むことはない。
人は裏切るし、期待はされないし、言葉は嘘だと断じられるし、何をしゃべってもわたしの言葉は作り話としてしか受け取られない。
世界は平等ではないし、人間は平和が好きなのではなく、安全圏から奴隷を虐げるのが好きだと知る。人間の本質だ。とてもたまらない。

何もない。なにも出来ない。
それでも着実に、確かに芽生えるものがあった。それがひどい無力感の中で着実に存在を拡張していった、破壊衝動だ。
破壊衝動といっても大それたものではないんだ。例えば家を壊したり車を壊したり、そういったものでは決してない。そういった意味ではとても小心者だったと思うし、狡い性格をしていたと思う。
それはプラスチックのカセットケースなどはゴミとしてあふれていたからよく使った。単純に右手の中で握りつぶすだけである。バキバキっと音を立てて割れた破片が手のひらに突き刺さる。それでも握り続ける。ジンジンとしびれて、赤い血がぼたぼた零れていくのを眺めていく。
これがわかりやすい破壊衝動の一例だ。破壊は唯一無二だ。自分にできる唯一成果の見えるもの。自分だけのものだと確かに言える結果物。それが破壊だった。それだけだった。
これは代償行為というものなんだろう。唯一残ったそれは鬱憤と一緒にあらゆるものに影響を与えた。

物を壊し、自分を壊し、破壊されたものを俯瞰で眺める。ただそれだけの行為。
それでも理性は確かにあって、二律背反の感情が程よくわたしを刺激する。そうなのだ。壊れたわたしの中でも『線引き』がどうしても存在した。

わたしは他人を物理的に壊せない。いや、壊そうと思えば壊せるのだ。ただそれの代償がすさまじく、割に合わないことを実体験から学んでいる。
そのエピソードでとりわけ印象深いのは、妹の破壊だ。きっかけはひょんな事だった。

「なんでゴミクズみたいなアンタは服を買えて、アタシは買えないのよ」
擦り切れるまではいた下着を、自分で稼いだ金で買ってきたそれが妹は気に食わなかったらしい。
「家のお金抜いてたんでしょ! パパに言いつけてやるんだから!」
「それで?」と、わたしは応える。
「それで…って、アンタが好きにお金使えるわけないでしょ!」
「なんで?」と、わたしは応える。
「ウザ、もういい。なに喋ってるわけ? 視界に入らないでくれる?」
「どうして?」と、わたしは応える。
「ああ、もう! ウザい、きもい! くんな! 死ね!!」

これは最初から問答にならない価値観の押しつけだ。
妹にとってわたしは、そういう生き物で見下して良いものとして捉えている。

こう言葉にされれば他人は同情心が湧くものだそうだが、一概に妹を悪と責めることは出来ないのもまた事実だ。
なぜか? これも誰もが大なり小なり経験している問題だろう。

だれだってそう教育されたら、固定観念を植えつけられたら、認識を変えることは困難だということを。

大人になってから問題提起して、いま必死になって世界中で考えなければならない先入観という問題を、思春期に入るかどうかといった時分の妹が理解できるわけはない。そんな簡単な問題なら、いま大人たちは糞みたいな多様性でああだ、こうだと叫んでいないだろうよ。
そもそもそれに疑問を持たず、そもそもそれが間違っているとは微塵も思わない。『正しいのは自分で、間違っているのは他人』と本気でそう思っている人間に論は通じない。
人外の言葉は羽虫の音以下。囀るだけで人を不快にさせてしまうということもついでに述べておこう。

だから、ゆっくりと近づいてわたしは妹の首を締め上げる。
「ねえ、そんな人間がいる家になんで住んでるの? なんで? なんで? なんで? なんで?」と、ゆっくり語りかけるように。
押し倒して体重をかけて、着実に喉を押しつぶす。咳で痙攣して膨らむそれも構わず、潰すようにしっかりと締め付けると、妹は何度も何度ものたうちながら白目をむいた。
そのあとだ。大人の、遠慮がない一撃を顔面に受けて吹っ飛ばされた。
鼻が曲がって息が出来ないぐらいドバドバと鼻血でていたらしく、思わず顔を押さえてのたうち回ってたから顔面一帯を真っ赤にした。
星が回るなんて言葉があるけど、目の前は本当にちかちかして、真っ赤になって、ぐにゃぐにゃになった。
そんな経験初めてだったから、発狂したようにわたしは笑う。楽しい。おかしい。
そのあと、獣みたいな叫び声が聞こえて頭からまた吹っ飛ばされた。

残念なことにわたしは生きていたし、妹も生きている。

ただし以降の妹はわたしにしゃべりかけてこなかったし、わたしが近づくとわかりやすいパニック状態になる。
ずーっと「ころされる、ころされる」とうわ言の様に呟かれては、また容赦ない一撃が顔面を襲うのだ。
妹を溺愛していた父親が、怒りに任せて自分と似た顔の長男を容赦なく叩き潰す姿は本当に愉快なものなんだろう。見世物としてもなかなかに面白い違いない。
そういう生き物を生んで育てたのはお前たちだろうに、ね?

わかってもらえただろうか? 
境界線を越えることが出来ないのは、何も倫理観に苛まれていたからではなく…単純に割に合わないという教訓からくるものだ。
言動は噛みあわず、相互理解など決して訪れない。壊れたわたしは妹を壊したし、父親も壊した。壊れた家族は緩やかに、明確に獣以下に成り下がる。
そこにあるのは文明化した言語ではなく、異なる獣の叫び声だ。

これを長期運用するなんて割に合わない。本当に、割に合わない。

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