とある歪な人間の自伝 その6
08 いつもと変わらない生活を演じるということ
馬鹿みたいに労働に喜びを見出している一方で、わたしは無事小学校を卒業し、中学生となった。
中学校ではとりわけ前の世代(卒業生)があまりにもわんぱくでどうしようもなかったこともあり、当時の学校生活は噂以上に随分と穏やかに感じられる。というのが第一印象だった。
しかしどの時代にも不良と呼ばれる人間は存在する。
悪い先輩が単車を乗り回して授業を中断させたり、どこかのスーパーから卵を籠いっぱい盗み出して、校舎一面に投げつけたり、学校同士の抗争があったり。そんなのが日常の中に組み込まれているとてもスリリングな環境でさえ『まだ穏やか』と感じる時代だ。
というと、不良漫画や格闘漫画の導入にも思えるが昭和の学校なんて何処もこんなものだと思う。
ちなみに窓に鉄網などで防護しているなんて嘘みたいな話も存在するが、それはもう一世代前の学校風景。それでも真似しなくてもいい伝統はしっかりと受け継がれていて、子供と大人の対立はわかりやすい形で存在していた。
それでも『穏や』と評価出来るのはその一世代前が本当にどうしようもない時代だったという、先入観の表れだろう。前にも伝えたがインターネットや携帯電話がない時代の田舎社会。情報は人のうわさ話が主体となる。正直、尾ひれ腹ひれだらけのうわさ話の中で『本当』を見抜いて正確に情報を整理するのはなかなかに困難だ。だいたいはうわさ話を鵜呑みにしてしまうのが常だろう。
そんな良識ある大人たちを「純粋だ」と言葉にするのは、少し意地が悪いのかもしれない。
話を戻そう。不良たちとわたしの話だ。
わたしの様に特殊な雰囲気をもつ人間は彼らにとって目をつけるべき存在だったのだろう。それは野性的な本能なのか、それとも単純に都合の良い人間を見つけ出す習性だったのか。半年もせずわたしはそれらに目をつけられ、集団リンチの餌食となる。
過去にもあったが、丈夫にできた身体はどんなにダメージを与えても大きな外傷には至らない。
流石に痣や腫れを作ることはあったが、骨は折れないし、内臓を損傷することもない。気絶することもないし、当然死ぬこともない。
しかし多勢に無勢というか、サンドバッグというべきか。
彼らは裏庭で、非常階段で、トイレで、待ち伏せは場所を選びつつ、わたしに選ばせない。
そして増長し、数を増やし、武装して…鉄パイプや角材をもってわたしに襲い掛かる。またかと辟易するも、そういった星の巡りならば受け入れるしかない。
そもそもわたしには選択肢がないのだから波に呑まれるしかないんだ。
この狭い世間でも、いや…だからこそ? 『長い物には巻かれろ』という精神がある。
みんな、いつ自分がその矛先になるか怖いのだろう。なぜって、簡単な話さ。みんなこれの本質を本能で理解しているんだ。
「これは特に理由がない。ただ何となくわかりやすく都合のいい対象がいて、誰かがそれに印をつけた」それだけでそれは人間から、人間ではない何かに変わってしまう。人間でないのなら、それは仲間ではない。人間でないのなら、それは遠ざけなければならない。
つまりはこんなところだろう。
だからというわけでもないんだろうが、わたしはちょうどいい踏み絵として機能したんだろうと思う。
なにが起こったのか? 答えは簡単だ。代わる代わるに『度胸試し』が始まったんだ。
さっきも言った通り理由なんてものはなんでもいい。例えば、障碍者の化け物(いもうと)がいるとか。目立つのが気に食わないとか。目が合ったからという前時代的な理由や、息が臭ぇなどといったもはや理由ですらない内容まで、付けられる因縁なんてものは道端に転がる石のようにありふれていた。
これの意味するところは、『置き換えられる理由を片手に人の形をした何かを物理的に傷つけられるか?』という原始的な話だ。無論彼らがそこまで考えているかと言えば、当然考えてはいないだろう。単純にあっち側か、こっち側か。団結力を作るには、共通の敵を作るのがいいということを動物的嗅覚で察しているわけだ。
だからわたしはそういった都合のいい装置となる。
さて「なんでされるがままになっているんだ?」と、知ったかぶった誰かは言うかもしれない。
しかし団体行動と団結力の前に個人の力はあまりにも無力だということを、その人は知らない。もし知っていればこれほど頭の弱い発言をしたりはしないだろう。
例えば。
わたしが手を出せば、次のターンには集団リンチで報復が始まる。
運が良ければ手心が加えられて明日も生きられるだろう。
彼らは団結できる理由があればいい。長期運用できる娯楽があればいい。
読者の中に「なにを言ってるんだ」って思ったなら、わたしはこう助言をしよう。
もし仮にそういう経験を得る機会があるならよく彼らの顔を見ておくといい。事前でも、事後でもない。さなかの彼らの表情だ。どれもこれも、愉快そうに顔を歪めているはずだ。自分一人のお陰で、みんなが笑顔になるのだからそれはとても幸せなことなんだろうさ。
どこでも言うだろ? 『お前ひとりにみんなが迷惑しているんだ』なんてさ。
だからせめて彼らを愉しませなければならない。それが少しでも長く生きるコツみたいなものなんだ。
わかるかい? これは絶対に彼らが勝利するゲーム。わたしは常に敗者でいなければ団結は得られないのだから当然だ。
こう言えば絶対勝てるゲームを持ちかけられて、絶対リスクを追わないと言われ莫大な掛け金を賭けるとする。そこでもし負けたらキミならどう思う? ふざけるなって逆上するんじゃないのかい? 感情が沸騰すれば簡単にこんな言葉を口にする。
「殺してやる」ってね。
理性が吹っ飛んだ状態で、そこに凶器があって、そして八つ当たりできそうなモノがあったらどうする? ぬいぐるみ、雑誌、クッションでもいいさ。振り切れた感情のままにズタズタにしたんじゃないかな?
それでも莫大な掛け金を失った事実は消えない。そこで悪い人に持ちかけられるんだよ。
「可愛そうな人だ。仲間になれば掛け金をかえしてあげるよ」「一緒に復讐しよう」ってね。
つまりさ、集団リンチに集まるような人間はそういうことをやりかねない人間だってことだ。
念頭に置けば、そこでやり返すという選択肢がどれほど馬鹿らしい話か、わかりそうなものだろう?
だから娯楽として長期運用できる方がもっとも被害が少ないというわけ。
ただこれには一つ重要な視点を忘れてはならない。
それが取り巻きの様に勝者にべったりな女たちの存在だ。
わたしにとって本当に陰湿だと感じたのはこういった女の存在と、その増長だった。
簡潔に述べれば彼女らの暴力は『直接的ではない』という特色を持つ。だから、線引きがわからない。そして、そのわからない事が理解できない。なぜ? すごく簡単だ。彼女たちは自分たちがとても頭のいい存在だと思い込んでいるんだ。
でも彼女たちにそういっても必ず否定するだろう。この思考が気色悪いと、ありとあらゆる罵声でこき下ろすに違いない。そこが陰湿性を隠せないところであるのは、想像に難しくないだろう。
彼女たちの武器は口撃や、感情の発露で与える他者への心象性なのだ。攻撃は直接的ではなく常に間接的だ。実行は本人の問題。彼女たちはちょっと助言やお願いをしただけ。
だから、特色としてやってはいけない線引きを持ってはいない。
直接的暴力であれば、客観的にでも事後が確認できる。
血を浴びれば、そこで冷静になるヤツも少なからずいるだろうし、ぐったりと意識を失えばビビる人間も出てくる。実感が伴えばどんなに言い訳をしたって、言い繕ったって、誰かが擁護してくれたって、自分の中に確かな存在感が残る。
これを都合よく解釈しがちだが実感が事実ならば、どう認識を変えようと傷は残る。
言葉の真意はともかく、事実とはそういったものだ。ただ人間は都合の悪い内容はすぐに忘れるから、その傷に対して復習的な要素は期待する方が愚かだということは伝えておく。
話を戻そう。
つまり彼女たちのやり口は実感が伴わない。
例えば、うわさ話。
当時田舎のネットワークはこのうわさ話が主軸だ。
だから学校で犯罪者がいると言えば、犯罪者がいることになる。根も葉もないうわさでも、5人、10人と同じ内容を告げればそれは本当になるわけだ。
仮にわたしが彼女らの誰かをレイプをしたとうわさを流されれば、わたしはレイプ魔になるだろうし、どこどこの店の商品を万引きしたとなれば、万引き犯にもなる。なかなかに面白いシステムである。
子供のアリバイなど、誰が証明してくれるのか。
思えば、わたしが生涯女性に対して苦手意識を感じているのはこういった性質を長年目の当たりにしてきたからなんだろうと考える。そんな一例を挙げられて全体を評価されても…と思うだろう。そんなことはごく一部だと当時のわたしもそう思っていたし、そう思いたかった。
幸か不幸か。わたしの周りにはそんな女性しかいなかったのだから、考えを改めることもないだろう。
ひとまずその感情はおいておこう。話を進める。
うわさ話と上から目線の評価。選民意識にも似たヒエラルキーの分別。彼女たちの目線は、自分が被害者に合わない絶対的な立ち位置からの目線。選別できるのは自分たちだとばかりに上中下と分けていく。わたしのような下民は「なにをしてもいい」対象として「なんでも」暴露した。
自分たちの愉悦の為に、下民を犯人に仕立て上げて弱い自分を演出してもいいわけだ。
そうして上民に「かわいそう、かわいそう」と守ってもらえばそれだけで承認欲求を満たされる。
彼氏を名乗る男が集団を率いて悪者を倒す姿なんてのはまさに物語のヒロインになった気分なんだろう。…か、どうかはわたしには図り得ない話だが、そんなくだらない事で何十回、何百回と集団リンチを、裁判めいた隔離を、食らってみれば食傷気味にもなる。そうは思わないか?
どこの学校でも、どの時代でもある話だろう。
スクールカーストという、人が団結する手段。そしてイジメという柔らかい言葉を用いて行なわれる儀式。
子供が考えることだからシステムは単純で、踏み絵の対象はとてもわかりやすく、そして踏まない対象を決して許さない。
許さなければなんだというのか。強く出れる人はそれでいい。
殺されて命を落としても、捕まった人間は少年院に収容され、何食わぬ顔で表に出てくる世の中だ。
たいして役に立たない恨みつらみを紙にでも残して、命でも断ったらいい。あるいは誰かを道連れにしたらいい。
複数の人間が初めて一人の人生を壊せるのに対して、たった一人で複数の人間の人生を壊せるわけがない。
当時のわたしもさんざん考えたんだ。ほんの少しでも立場が逆転する方法というものを。だけど答えは存在しない。
大なり小なり、人を罰するのは人なのだ。罰する人間が味方にならない限り、逆転はあり得ない。これは絶対の法則だ。一人でも多くの味方を付けなければ、逆転はあり得ない。これは物語じゃない。一発逆転の、起死回生の、そんな決定的何かが都合よく落ちているわけもない。そんな幸運があればそもそもこんな状況に陥ってない。
そして現実を口にすれば、何にもならない。何にもなれない。だれも味方しない。ただ道化のようにへらへらと笑い、変わらない日々を続ける。踏み絵であり続ける。
それでも3年続けば、突き抜けてしまう気持ち悪さに人は離れていく。積極的に拳を受ける相手に、「おはよう」「今日は肩パンしないの?」「今日はいつもの○○いないの?」なんて笑顔で言ってくる奴が気持ち悪くないわけがない。
そうして主要メンバーとは3年間のある種、信頼関係にも似た確立された立場が構築される。
結論としてわたしは幸い、殺されなかった。そして自殺もしなかった。
その背景には労働という楽しいことがあったからだろうと自己分析している。労働を取り上げられたくなかったから、「いつもと変わらない生活を演じつづけるしかなかった」んだろうとそう思っている。
働き先に心配させたくなかったし、両親に余計な口も出されたくなかった。
『何もない』を演じるしかなかった。『普通』を演じるしかなかった。
それほどまでに、わたしは労働に対して執着していたんだろう。
ただ。ただ、もし…。
わたしに「何もなかった」のなら、……もっと狂っていたかもしれない。
尤も、危うかった時期もある。その時期のわたしは、絵に描いたような病んでる状態となっていた。
誰かは言ってたよ。お前は心が弱いって。そうだね、本当にそうだと思う。
その弱さが、わたしの妹を壊したのだから。