とある歪な人間の自伝 その1
01 前段
なんてことはない話だ。ほら、よく言うだろ? 人の過去に歴史はある、みたいなさ。
大層なことを言っているがそれがどんなものでも、人の歴史からしたら…そりゃ、どれもありふれたものだ。そして多分に漏れず、わたしもそう。
これから綴る内容を読んでどう思うかは読者の皆様にお任せするわけだが、他人様にとやかく言われようとも揺るがないのは個人的な感想。これらを歩んできたわたし自身がそうだと決めつけている、その感想だ。
では、なんでそんな「ありふれた個人の人生」を綴ろうと思ったか?
当然の疑問だろう。ただこれも正直に言えば対した話じゃない。しかし腰を上げるだけの理由になった、これは確かなことだ。
ある日。わたしの元に一つの質問が届いた。
『どうしてイジメはなくならないのか?』
今まさに悲鳴を上げている人からすれば、早急に解決したい命題。しかし、現実は複雑で、歪で、実に暴力的だ。
わかってる。そんな慰めにもならない言葉しかわたしは語る事しかできないんだ。だけど、例えば『わたしだったならどうしていた?』そんな疑問がふと芽生えた。
いまにして思えばだが、わたしもそれなりに特異な人生を歩んでいることを思い出した。
だけどそれを語るには躊躇するだけの理由もある。つまりは『特異すぎる』んだ。
事実は小説より奇なり。英国の詩人バイロンはそんな言葉を残したが、まさにそれだ。事実を元に虚構を混ぜても、そもそもの事実が個人の観測なわけだから基準に限界がある。熱に触れなければ熱さは判らない。対岸の火事を恐れることはあっても、対岸を越えて火事をどうにかしようとする人間はなかなかいないだろう。
別にわたしは、そんな正義感にありふれた人生を送ってきたわけではないんだが、…何を言いたいかと問われればこうだ。
だれも、自分の想像を越える話を聞けば、作り話だと思うだろう?
それがわたしの人生だ。他人からすれば「それはあり得ない」「作り話でしょ」「嘘が好きだね」なんてよく言われるけど、それは単純にその人間がわたしを知りたくない。常識から外れているものを認めたくない。自分の世界では推し量れないから敬遠したい。そうした感情の発露をわたしにぶつける。
信じてもらえないってのは悲しいもんさ。それで傷つくことも若い時にはあったけども、ある程度歳を老いたわたしにはもうそれに反発する気持ちも残ってはいない。わたしに対してある種の恐怖や得体の知れなさを感じるのであれば別にそれで構わないと思うし、石を投げられることも構わないと今では思ってるんだ。
何故かって? 散々投げられてきたのだから、今更それに対してどんな感傷を持てばいいのか? 逆に問いたいぐらいなのさ。
日常だったものに、自分の歴史だったものに、否定的な意見を持たれるわけだからどうしようもない。
嘘をついて、経歴を書き換えるしかない。だけど、そんなのは不毛じゃないか。なんで、自分の人生を証明するために自分の人生を書き換えなくっちゃいけないんだい? 馬鹿げているだろう? 人が信じやすいように、想像できる範囲内の物語を、わたしが用意するんだぜ? 笑い話だろ。まさに道化だって客観的に見てもそう思うぜ。
だからこう思うようにしたのさ。わたしの日常において石を投げられる行為は、消しゴムの削りカスと同じなんだ。誰しもそれに対して憤りを覚える人はいないだろう? 自分で消した削りカスなんだから、払って御終いだ。そこに感情なんてほとんどないさ。
だから、遠慮なく憐憫を、侮蔑を、嘲笑を、そして軽蔑を、嫌悪を向けてくれて構わない。
ただこれだけはハッキリ言っておくよ。
「それでもわたしは生きている」
こうやって文章を書いてるんだから当然だろう? と思われるかもしれないが、これが実のところとても大事なのさ。
生きている。それが事実で、それが凡て。別段、こんなのを誇らしく掲げるつもりはないんだけど、打ちひしがれていても、不幸アピールしても、環境は、世界はそうそう変わらない。本当に変わらない。
物事を作り、物事を塗り替え、物事を変革させるのは、いつだって生きた人間だ。そんでな、変化したって実感は生きた人間でしか感じ取れないのさ。
だからってわけでもないが最終的に死んでない。
いわゆるイジメを受けていた間は殺されることもなかった。死にそうな状態には何度かなったけど、それでも、性懲りもなく生きている。
意外としぶといのだろうね。自分では本当に、よくわからないのだけども。
たから…というわけでもないけど、『世界にイジメが無くならないのは何故か?』これに対してのわたしなりの回答を、そしてそれを思うに至った過去を書き残しておきたくなったんだ。きっとね、書ききっても、振り返ったら居た堪れない気持ちになって消してしまいたくなるんだろうけどさ。そういうのも判っちゃいるんだけどさ、頑張って残してみようと思ったんだ。
うん、こんなのは一種の気の迷いにも似た何かだ。
でもそれで誰かの溜飲が下がったり、感銘を受けたりさ、自分よりも下の人間がいると安堵してみたり。そういったことに役立てればいいなって。まあ、なんだ。都合よく解釈して、石を投げてくれればいいのさ。わたしの生き方はもうそれで変わらないだろうし、糞なりの役立ち方はあるだろうって思ってんのさ。
いや、そういうと格好が良すぎるか。なに、ちょっとした暇つぶしの文章でさ、それでプラスになったって人間が1人でもいたなら、まあ、わたしのような人生もなんかの役に立つんだなって、そう勝手に思い込みたい。ただそれだけなんだよ。
だからこれは、何の生産性もないただの独り言。
ある男の、半生を記した文章だ。かしこまる必要もなく、ただただ老害の独り言だとおもって聞いてほしいと思うんだ。
02 最古の記憶とわたしの世界を形作るもの
幼少期の記憶で一番古い記憶は東京と神奈川の境界線の団地、その一室で、子犬と一緒にガラスを叩く記憶だ。
2~3歳ぐらいだろう。その時、わたしは何がしたかったのか、わからない。ただ、外に焦がれる気持ちが強かった。そんな風に感じている。
だからというわけでもないが、印象に残ったことは存外忘れるものでもないんだと実感しているんだ。
仮にIF、『もし~だったならば』の世界線。この場所でわたしがそのまま育ち、別の場所に移っていたならば。
こうしてこの文章を書いている筆者にはおそらくならなかっただろう。そんな風に思う。だから、……うん、だから。この内容はわたし個人の価値観でいえば相当に覚悟の必要なものであるという事は、どうか理解してほしいと思うんだ。
事実を、ありのままをここに記していくつもりだ。きっとわたしの周りは驚くだろう。なぜなら嘘で塗り固められたわたしの過去を信じてきたのだから。
その噓の内容だってかなり突拍子もないもの。10中8が作り話だと思うだろう。それは、前段でも述べた。だからあえて言う。それよりもかなり突拍子のない話で、まったくもってリアリティがない。笑ってしまうぐらいにね。
さて、どこから話そうか。
最初の舞台はS県。引っ越してきたのは5歳の時だ。
S県の山奥。バブル期で至る所で再開発が進み、プチ成金たちがこぞって土地を買い漁った時代。昭和の後期である。
わたしの両親はもその流れに沿って、○○タウンの一戸建てを買う事となった。正直、ここの何が気に入ったのか? わたしにはわからない。
だって本当に山奥で、近所にはくたびれた神社、少し行けばゴルフ場。とはいってもだ、日本中どこにでもある山を削ったゴルフ場。○○カントリークラブとかそんな感じの名前だ。はて、ゴルフなんて父親はやってたか? 正直しらない。では何に惹かれたのか、本当にわからない。
そして、その土地の元々は大規模工場の廃材置き場として無駄にゴミが放置されていた空き地。要するにまともな土地ではないことは、少し考えればわかることだろう。いまでこそ建築基準は厳しいが地質調査、地盤調査も定かじゃないだだっ広い空き地の下には埋め立てられた大量のごみである。買ったら最後、いまじゃまともに売れない事は想像に難しくない。
しかしバブル後期に大規模工場が余らせていた土地を切り払って売り捌いて、ぎりぎり儲けたのだろう。そこに次々と各県から人が流れてきたのである。
地元の人なんてそんなものはいない。地主らの敷地をほんの少しだけ削ってできた盆地のような開発地。だいたいそんな開発なんてのは決まって禍根を残すもんだ。わたしが子供のころにあった話だから詳しくは知らないが、やはり温度差のようなものはどうしてもあったと思う。
それは子供でも十分に感じれるものだったのさ。
開発が進むにつれて、人口は局地的に増えていく。もともとは集落のような場所だったが、人口が増えれば子供も増える。
当時コンビニなんてものはなかったから、煙草を買いに行くにも子供の足で片道50分の山道沿いの売店まで行かなくちゃいけなかったし、商店は車で30分以上先の駅前まで行かなければないような立地条件。道は農道だし、下水は走っていない。
しまいには軽快なメロディーを流しながら移動販売用にカスタムしたワゴン車、軽トラなんかが来る状態だ。
こう聞いて、本当に山奥の限界集落みたいなイメージを持ってくれれば、だいたいそのままの光景で正解。その緩やかな坂道を階段状に削って、そこに家を建てる。
家の前はさすがに舗装するが、それ以外は石造りか土である。
業者もよくそんな住宅地を売り捌いたと、当時の営業マンを褒め称えたい気にもなる。が、要するにだまされる方が悪い状態とも言えるだろう。
もっとも現代社会の常識に照らし合わせれば、本当に騙される方が悪い『先見の明がなかった移住者』の自己責任だ。まったくもってご愁傷様である。
さて、その中の一家庭がわたしの家だ。つまりご愁傷さまの一例でもある。
それでも人間。鈍感に気づかなければ、住めば都。協調性をもってけばそれとなく何となく上手くやれていたのではないかとも感じる。
…いや、そんな生易しいものでもないか。
次に当時のわたしたちを軽く説明しておこう。
当時5歳であるわたしには役割という仕事があった。それは、まだ1歳妹の身の世話と家族の食事の用意である。
さて、いま読者諸君に語りかけるが、自分が5歳の時を思い浮かべて見てほしい。その時は何をしていた? 役割や、家の仕事が与えられていたであろうか?
わたしの両親は共働きであったという事もあるが、わたしの家庭は鉄の様な掟…要するに『家訓』があったため、それに準じた生活を送っていた。
その家訓は「働かざる者、食うべからず」である。
現代のようにお惣菜がコンビニで買える時代でもなかったし、母親はパートから帰ってくればすでに夜。その間の食事は自分たちが用意しなければならない。
母親はどうしていたかって? 母親ももちろん料理はする。しかし、それは子供の為ではない。父親は母親の務めを「夫より早く起きて、夫を第一に支え、夫が帰るまで待つのが当たり前だ」と厳命していたこともあり、なかなかに難しい状態だったのだろう。
例えばお見送り、お出迎えは当たり前だし、食事は出来立てでなければならないし、お風呂は一番風呂でなければならない。
一国一城の主という言葉があるが、まさにそれだ。そういうのを「躾けられてる」というのだそうだ。昨今の人権団体が見たら卒倒しそうな内容であるが、本人たちは大真面目。
父は、妻を躾け、子を躾ける存在でなければならない。これを一貫していたとも言える。
つまりは父よりふた回り近く若い母は、亭主関白の真っただ中だ。まあ、なんでそんな人と結婚した? と、疑問に思われるかもしれないが、母方の実家は自営業。細々と商売を続けている田舎の中小企業だ。その頃なんて勿論インターネットは無いし、パートナーシップ契約のような業務形態もない。技術屋一本で個人事業を続けていた自営業に、国家公務員の父はまぶしく見えたのだろう。
バブル期の景気のいい時に限らず、景気が悪くても世情に左右されない。いいも悪いも、安定という意味で見ればこれほど安心感のあるものはないだろう。
だから娘を大手を振って送り出したというわけである。
ならば、だ。
母は自分の事だけで手一杯になりそうなところを必死に耐えて頑張っていた、その背景も十分に理解できる。
そんな母の一日は朝は4時過ぎに起床し、父親の食事とお弁当を用意。そして見送った後、自分もパートへ行き、帰宅してから父の為に食費をかけて料理を作り、風呂と閨の準備をしておく。だから就寝は2時、3時を超えることもザラという生活だ。
安定の公務員に嫁いだのになぜ、パートに出ているか、だって? 父親は生活費に自身の給料の3分の1しか入れないからである。
当時はバブル期だ。付き合いの金額は現代家庭の予想をはるかに超える。月に数十万、数百万を使うのもいわば当たり前の時代である。賭け事、飲食、女遊び、それが当たり前で日常なのだろう。もっとも、これはわたしの想像の話だ。
時代背景や、当時の金銭感覚など、様々な情報を加味すると見えてくるのはこんな世界が浮き彫りになる。ただそれだけの情報である。
事実としての話であれば、日常子供に構っている時間などなかったというのがわたしにとっての唯一である。現に空いた時間であれば母親はよく眠りに落ちていたことをわたしは覚えている。
だからというわけでもないと思うが、必然的にわたしにも仕事が割り当てられる。わたしは長男であったから、家を母親に代わって支えなければならないと言われ続けていた。これはもはや教育というよりは洗脳に近いのだろう。しかしこの時代ではたった一つの言葉に置き換えられる。それが『躾け』である。
自分たちの炊事、洗濯、掃除と妹、犬の世話。これが当時5歳に宛てられたわたしの使命だ。だからわたしは物心着いた時分から料理を作っていたし、子供なりに家事もこなせる様になっていた。
食器入れにしまい込んでいる食費から3百円を抜き、徒歩で片道1時間かかる道を、妹をおぶさって行く日々。犬もいつも一緒だ。
帰って簡単な料理を作る。例えばスクランブルエッグと前日の残り物のごはんを犬と妹と分け与えて食べる。それが終われば妹の布おむつを洗う。ん? 布おむつって何? と思われる人もいるかもしれないが、当時は紙おむつなんて便利なものはない。ならどうするのか? ガーゼタオルにも似た布おむつをナイロンの網目状の収納ケースにストックしておくんだ。汚れたら当然洗って再利用する。
そして妹をおぶって犬の散歩に行き、前日の湯を張ったお風呂を温めなおして用意をする。終わればお風呂を洗って、新しい湯を張れるように用意しておく。
そんな5歳児がわたしだ。
歪に思われるかもしれないが、わたしはそれが普通のことだと思っていたし、みんな…つまり何処の家庭もそんなもんだと思っていた。
父親曰く、子供が家の仕事をやるのは当然で、子供が親に尽くすのが当然だと言う。イヤイヤ期、反抗期、子供の心の成長には様々な変化があるといわれている。だから勿論つらいこともあったが、弱音を吐けば父親に「根性を叩きなおす」と竹刀で、灰皿で、拳で殴られたりもしたし、母親が庇えば母親も殴られていたものだから、わたしたちは「いいこ」で無ければならなかった。
まったく時代錯誤だと、笑ってくれていいと思う。
03 愛に育ったという言葉
6歳になり、わたしはカトリック系の幼稚園に入園する。
幼稚園の園歌を覚えている人はあまりいないかもしれないが、わたしは何故かよく覚えている。
「♪~羊飼いイエス様の愛に育った私たち」
そう、ここで出てくるキーワードが「愛」である。
わたしはそんな言葉は知らないし、そんな感情も知らない。愛されていたか? それも当時ではわかるはずもなく、聖書に出てくるイエス様は偉人でありながら、わたしの当時の価値観では異物でしかない。正体の不明な不気味な存在。それでもイエス様はわたしたちを見てくださるというのだから、恐怖でしかない。
愛すること、愛されること。わからないことだらけ。そして、幼稚園という子供の集合体はわかりやすいヒエラルキーを生み出した。
当時、自覚がなかったがわたしはいわゆる「普通」とはだいぶかけ離れていたところにいた。
普通の子供でない価値観、行動、そして付き合いの悪さ。そんな対象がヒエラルキーの最下層に立つのは物珍しい光景ではないだろう。
お世辞にも現代的とは言えない旧時代な家庭環境なのだから、父兄もこぞってわたしの両親を敬遠する。村社会でそれは存在の否定を意味することだろう。
大人たちがわたしの両親を不気味なものと捉えているのだから、それを見た子供はどう思うか? 子供は純粋だから、その家庭は石を投げてもいい家庭だと思い込む。なんてことはない、大人のまねごとを始めるわけだ。
愛を謳い、平等を謳い、平和を謳う。そんな幼稚園で差別が起きる。
さて、それが差別だけで済んだか。そんなわけがない。それも❘現代《いま》にして思えば、だが…。
ただこれだけはハッキリ言える。わたしは彼らにとっての『異物』だったんだろう。
幸か不幸か。実際のところわたしは日常から暴力に対して耐久性があったし、所詮は幼稚園児の力だからせいぜいが痣を作るぐらいだ。そんな日常のことにいちいち恐怖を抱くことはないのだが、中途半端に心の成長を遂げてしまう。
実はおびえてしまったんだ。暴力? いやいや、そうじゃない。
それは他人と違うことに対しての恐怖だ。
突如渡来した新しい価値観に、わたしの世界の見え方が変わったんだ。
周囲の理論でいえば、わたしは「普通」ではない。
では何だろうか? と、自問自答する。当然に思う疑問だ。
周りを見れば違うものがありふれているのに「普通」を引き合いに出す意味が分からない。けど、わたしは周りからすれば「普通」ではない。
何処が? という話ではないのだ。普通でないものは「普通でない」のだ。
それは注意できるものでもないし、矯正できるものでもないし、新たに手に入れるものでもない。
「普通」でないから排除されてもいい。「普通」でないから暴力をふるってもいい。「普通」でないから人権なんてない。
ロジックなんてものはない。そうだから、そう。
幼稚園ではこんな話をする。
隣人に暴力をふるってはいけない。
人はみんな平等で、神様に見守られて、神様に愛されて生まれてきたのだ。
だからみんな平等な人間で、愛されなければならない。
牧師兼園長のありがたいお言葉も、子供にとってみればよくわからない大人の言葉である。
暴力はいけない。手を繋ぎ、言葉を交わし、愛を確かめ合う。
親愛で辺り、友愛であったり、それに数々の意味が込められているのを現在だから知っているが、一般的な5歳の子供が直感的にそれを知っているかと聞かれれば、「知らない」とみんな口をそろえて言うだろう? でも教えであり、教育であり、そういうものだと聞かされ続ければ、それが「普通」になるための入口だと思い込んでしまう。
そうだ。わたしは「普通」になりたかったのだろう。
自分でやられたら悲しいことはしない。痛いことはしない。危険なことはしない。
子供にたびたび聞かせる教育の言葉。
それが普通であったならば、わたしはそれをしたくはなかった。
例えば子供の喧嘩。逃げ回って亀の甲羅のように丸まって固まる状態の人間を蹴ったり殴ったりする行為を、当時の大人は「子供の喧嘩」と総称していたが、それを見ていた先生はこうわたしに言った事を覚えている。
『どうして、キミはやり返さないの?』
「どうしてやり返さないといけないの?」
『だって、…くやしくないの?』
「でも、殴ったり、蹴ったりしちゃいけないんでしょ?」
『そうだけど、くやしかったらやり返して…』
「やり返したらあの子たちが痛い思いをするんでしょ? それはダメなことでしょ?」
先生は閉口していたことを覚えている。
辛うじて中立を貫いていた人物はそれを都合よく「優しい子」だと称していたけど、なんてことはない。ある言葉に従っていたからだ。
『自分の嫌がることは、誰かにしてはいけない』
読者諸君もそのような教育の言葉を受けたことはないかい?
『殴ったら痛い。自分が痛いと思うことはやられたくないでしょ? だからやってはダメ』
こんな感じの単純な話さ。
人一倍、殴られる痛みを知っているから、だから相手に向けてはいけない。
友達には『躾』をしてはいけない。だから相手を殴ってはいけない。
なら優しさなんて言葉はとても縁遠いと理解してもらえるだろうか?
そして、この時からわたしは多大なミスを犯したことに気づけないでいたことも合わせて追記しておく。
これは処世術の話。といっても、所詮5歳児になに難しいことを言っているんだ? と、思われることだろう。
そう。だからミスというよりはこれから学ぶべき事柄と言い換えた方が一般的にはしっくりくるんだろう。
しかしわたしの性質、性格、境遇上は『知らなかったから出来ない』は言い訳にならない。例え可能性が提示されていなかったとしても、誰も導いてくれなかったとしても「学ばなかった」「勉強しなかった」「覚えなかった」「見つけなかった」、この事実が『悪』なのだ。
全ては自業自得。出来なければ躾けられる日々を過ごしているのだから、この時には骨の髄までこの考え…というよりは精神が浸透していたわけだ。
なんというか、不器用さの塊だな。
これは余談だが、
抑圧と解放の関係だ。演劇の場面では『感情解放』といった言葉で表現することがあるが、それとは過程において若干の性質違いがある。
いわゆる感情解放とは、自身の感情に蓋をする無意識の抑圧に対して「抑圧する必要はないよ」とアプローチをかけるマインドコントロール法だ。
例えば、絶叫マシーンなどで大声を上げるシーンがあるとする。大声を上げるのは怖いからか? それとも感情が興奮しているからか? 理由は様々だがいくつかのパターンがあるわけだ。しかし、ここに対立するように抑圧の感情が生まれる。
例えば、大声を上げている自分が恥ずかしい、怖がっているみたいでみっともない…とね? 要するに、我慢を無意識にしてしまうわけだ。我慢、すなわちストレス。娯楽施設で疲れてしまう人は、このストレスが大きな理由になっている場合がある。
じゃあ、どうする? ここで必要なのが感情解放だ。
絶叫マシーンで馬鹿みたいに叫んでみる。すると、どうだ。自分の感情が表に出たことで少しだけすっきりする。
人間っていうのは単純なもんで頭空っぽにして、泣いて笑って怒って喜んで、感情に従って生きた方が物事を楽しめる様にできている。
だから感情を留めるよりも、感情を動かしていた方が人生の満足度は高い。これは、だいたいの人が実感として知っている事実だろうさ。
ではいったん感情解放の話は忘れてくれ。
処世術の抑圧と解放とはどういった内容か。話を戻す。
例えば社会では小さな喧嘩(反抗)自体がエスカレートを防ぐための息抜きになることがある。
子供同士であればその光景はとても顕著だ。感情を感情でぶつけ合う、つまりはコミュニケーションとなる。
人間社会においてこのコミュニケーションはとても必要なことは誰もが知ることだろう。
殴れば手が痛い。殴られれば自分が痛い。そうして、自分が行っている暴力がどういったものか、急速に理解する。
無論、子供の喧嘩はそれほど論理的ではないし、他にも「くやしさ」「負けん気」といった感情も働く。一通り終わってようやく理解に至る。
要するに簡単に説明すれば拳と拳で喧嘩しているうちはまだ、大きな事件にならないわけだ。
拳で語るなんて漫画やアニメで昔あったシチュエーションも、コミュニケーションと感情が伴えば、自身の理解が相手の理解に代わる。
これを便利な言葉で「他者を認める」に置き換えることが出来る。しかし、だ。
今回のように、暴力の対象がカカシ同然のモノ言わぬ存在だったら? 子供は手加減が出来ない。爆発した感情は楽しいに向かって一直線だ。
つまり、終わるまで終わらない。捕まえてきた昆虫を徹底的に遊ぶように、動かなくなるまで、遊べなくなるまで遊んでしまう。
では、わたしのようにコミュニケーションも最低値。波風は立てない。そして味方もいない。こんな状況下では、ただの遊び道具にしかならない。
物事が大きくなるのはいつだって水面下に隠れたとき。
静かな湖畔に一石投じただけで大きく波紋が広がるように、何もない時こそ物事は際立つ。仮にこの瞬間を狙って騒ぎ立てれば、波紋は最大限に高波となって広がる。特に現代社会ではこのタイミングがもっとも有効的な武器となるのは良く知っている事と思う。SNSの炎上が、その後の人生を大きく変えることだって良くある話だ。
だから物事を隠したい大人たちは必死になってそれを隠そうとするわけだ。
しかし燃えてからではすべてが遅い。こっちは暴力的でなく、常に被害者の立場を貫いて、悲鳴を上げていればい。社会的に弱者の立場でいれば理想的な問題提起の方法として成立するという算段だ。
だけど、それは「その異変に、異質に、凶暴性に、どれだけの人間を巻き込んで問題提起できるか?」の、問題でもある。
そう、当時のわたしにはそこが圧倒的に足りないのだ。勿論、武器となり得るSNSも当然ない時代だ。
その上で攻撃を加えても、そこにあり続ける害悪のわたし。ならば、純粋に排除したいものたちから見ればどう映るか。
後は…考えなくてもわかりそうである。
そしてある日。
わたしは、近所の飼い大型犬に襲われる。正直、事故の前後は詳細に覚えていないのを許してほしい。
確か経緯はこうだ。
誰かに、わたしの物を取られて、とある家の敷地に投げ込まれた。
その家は、玄関先に大型犬を飼っており、決して広くない敷地内で自由に移動ができる状態だった。
敷地内に進入したわたしがその犬に襲われる。といった流れである。
番犬は興奮状態であったし、当時5歳のわたしが成すがままだったのは言うまでもない。
その当時の傷をありのままに伝えるのであれば、左胸を抉られ74針、本能的に抵抗を見せた右腕をメタメタに噛み付かれ37針。
幸運だったのは、全部急所から外れていたことだろうか。無意識下でも抵抗したお陰で胸の傷は臓器には到達しなかったし、偶然にも動脈を外していたお陰で、早期の出血性ショックは引き起こされなかった。しかしながらこれらは確かに致命傷。幸運は続いた。騒ぎに気付いた飼い主が、すぐに対処したのだ。早期に引き離さなければ出血多量で死んでいたと医者は言っていたらしい。
医者の見立てなんてものはよくわからなかったが、事実、これにより3ヶ月の入院生活を強いられる事になった。
なお原因探しの結論は、わたしが犬を刺激したことになっている。
犬を飼っているわたしが、他人の家の犬を刺激するとは…? 世の中わからないものである。
飼い主に過失傷害罪はあっただろうし、父親が裏で動いていたのは何となく聞いた。賠償金の話だろうがそこらへんはわたしにはわからない。ただ、入院中の間は殴られることはなかった。
そもそも父親が見舞いに来ることもなかったけど。
入院中は退屈だ。
母親が週に1回程度見舞いに来ていたことは覚えている。
最初に入れられた病室は入院患者が4人ほどいる空間。しかし子供がいる空間というのが問題だったのか、しばらくして個室に移された。
テレビも無くて、白い壁の個室。ただただ時間が長くって、何か暇をつぶせるものが欲しかった。祖父母が来た時、わたしは折り紙の本と折り紙を強請ったことは覚えている。
祖父母は優しかったと思う。わたしはいわゆる初孫だったから、かわいく見られたんだろう。
だからか、当時の特撮ヒーローの人形や、漫画雑誌、そして強請った折り紙が送られた。当時、メンタルケアという言葉が一般的ではなかったころだから、いろいろ勘ぐる部分はあるのだが、現代にして思えばそういった意図もあったのかもしれない。
それでもずっと一緒にいたわけではなかったし、一人の時間が大半を占めている。
だからわたしは折り紙を折り続けていた。
よくできた折り紙は顔なじみになった看護婦にあげたりしていた。
誰かに喜んでもらいたかったんだと思う。心配されるのが、なんか申し訳なく感じたんだ。
だけど、ある日。ゴミ箱にはわたしの渡した折り紙が捨てられているのを発見した。
世の中、そういうものか。妙に悟ってしまったわたしは、それ以降誰かに折り紙を渡すことはなかった。
なぜだろうか。きっとこう考えたのだろう。
おそらくわたしはとても醜い存在だったんだ。いつか読んだ醜いアヒルの話を思い返しながら子供ながらにそんなことを思っていた。
醜いのだから、愛に育つことは出来ないのだろう。
醜いのだから、誰かに喜んでもらうことはないのだろう。
醜いのだから、……こうなるのは当たり前なんだろう。
神様なんてのは、きっとわたしには何もしてくれないんだろう。
そんな風にきっと、考えていたんだ。