岡崎巡検

小雨がちらつく中ではありましたが、予てより計画していた岡崎巡検を実施しました。

まずは東岡崎駅の南に位置する「六所神社」へ

・第37代斉明天皇の勅願により、奥州塩竈六所大明神を勧請(分霊を他の地へ移すこと)され、神領を寄進された上、創立。
・第50代桓武天皇の命を受け、東夷征伐に向かった坂上田村麻呂が祈願し、勅許の上、再建され「六所大明神」の勅額を下賜された。
・徳川家康誕生の際には産土神(うぶすながみ)とされ、3代将軍家光にも厚く遇された。
           (社記 由緒略記より)

この社記を見るだけでも、この神社の歴史の凄みが伝わるのではないだろうか。
この神社の境内には家康の手形もある。「家康の手形ファンだが、久能山東照宮には行けない」という人はぜひ訪れてみるといいだろう。

次に乙川に咲く桜に春を感じつつ、随念寺へ。

家康は「森山崩れ」で亡くなった祖父・松平清康の遺骸を火葬し、墓塔を立てたほか、家康の生母・於大の方に代わり家康を幼少から養育した、於久の方(清康の妹)も清康の墓と並んで葬った。    

このお寺は、以前の羽島巡検の際に「竹鼻城主であったかもしれない」と学習した太田元久の子孫・太田道休からの菩提寺(光円寺から移動)であるそうだ。羽島巡検から岡崎巡検に繋がるものがあり、驚きを隠せなかった。

*太田元久は美濃小稲葉山城で織田信長に敗れ、岡崎へ逃れて商家となった。 
           (岡崎市史20より)

なおこの件は下の方で別記

さて、お次は岡崎信用金庫資料館に行くも、参観できず。そこで籠田公園を抜け、甲山へ。

甲山寺、甲山八幡宮を参拝し、少し登って甲山1号墳・2号墳へ。
前方後円墳の形跡をどことなく感じることができました。

そして、いよいよ言わずと知れた岡崎城。

「三河武士の館 家康館」にも立ち寄り、尾張徳川家・お亀の方ゆかりの江戸時代初期の品々に癒されました。

また、岡崎城の本丸に向かう途中、石垣に施された「矢穴」を探して歩きました。

今度訪れる時には、矢穴のほかにも刻印も探そうと新しい楽しみが見つかりました。

城を出て、八丁蔵通の方へ。
岡崎名産の八丁味噌蔵に風情を感じながら、光圓寺へと足を進めました。

そして、岡崎市立中央図書館に立ち寄り、そこで解散に。

その後、僕は杉浦君銀蔵頌徳碑、東照公産湯の井戸に立ち寄り帰路へ。

今回の岡崎巡検は、羽島巡検と繋がるところがあったりと充実したものになりました。
主としては、家康と三河武士に関するものが多かったですが、古墳など岡崎の新しい魅力を発見することができました。
             
             令和3年度副会長

同日追記
【2021.4.3再追記有】
【安城巡検?と太田元久】
次年度副会長は岡崎城の方を見たようですが、私ともう一人で安城へ。結果的にもう一人別行動で来てたで、人数の半分が来たことに。

それはさておき、東岡崎から南安城駅へ。
南安城からは歩いて昼食を食べながら安城市歴史博物館へ。

ここは前々から何度か来ていて、本気で愛知県トップクラスに優れた博物館だと思っている。
まず図録が非常に充実していて質も高い。そしてこれに連動するが、企画展がこれまた面白い。最初来たときは本多正信の企画展をやっていて規模の大きさに驚いた記憶がある。また同じ言葉を繰り返すが、常設展示も非常に充実している。大きい博物館とあって、それぞれの専門の人が書いている感があり、内容も的を射ていて見ていて飽きない。また複製も多いが、全国の人面紋土器等希少な土器を集めていて、比較できるところがなかなか面白い。また埋蔵文化財センターも隣接していてこちらの展示も小さいながらその年の発掘成果を公開している。ちなみに屋外には遺構は殆ど無いが安祥城がある。
さて褒めちぎったが、博物館を見学したあと安城市の図書館へ。
岡崎の図書館の大きさにも驚いたが、こちらもまたかなり大きい。
ある程度図録も充実しているので岡崎とともにオススメです。

途中でなんか見つけた

さて本題?
岡崎といえば太田元久(違います)
まず簡単に
羽島市の竹ヶ鼻城主であった太田甚次郎元久が信長に敗れて岡崎へ逃げてきて、その後子の太田重久らが商売を大成功した話


さてこの太田元久が竹ヶ鼻城主であったという話は太田側の資料でしか確認されておらず、定かではない。
これ以上追求しようがないのであまり相手にしてなかったが、多少今まで見逃してた情報も入ったので紹介したい。
まず太田持資入道道灌の子孫の太田甚次郎元久は永禄年間(1558〜1569)に竹ヶ鼻城主をしていて、信長の家臣だったが、一向宗の信者であったため、元亀2年(1571)に長島城主とともに抵抗し小稲葉城に立て籠もった。その後落城し、岡崎へ来たあと太田理左衛門と名前を改めて天正元年(1573)に没した。前述の通りその子の重久が商売を繁盛させ、元久の孫の太田彦重郎政重が理左衛門の菩提寺から善廊を迎えて今も残る光円寺建立した。またその後太田道休が菩提寺を光円寺から随念寺へと移動させた。
なお光円寺は何度も洪水の被害にあっていて、現在の矢作川の河床あたりにあったとも考えられている。

とにかく太田が竹ヶ鼻の城主であったことを証明するのは難しい。ただ全く根も葉もない話ではないように思う。流石に岡崎と竹ヶ鼻では離れすぎているし、血縁をつなげる必要もなければ無理に竹ヶ鼻を持ち出す意味がない(その後竹ヶ鼻に関連することが一切登場しないので、創作する意味が不明瞭)。
このあたりから考えると竹ヶ鼻と関係があるのはある程度事実を反映しているのではないだろうか。ただし城主であったかはまだまだ検討が必要だろう。

ふと思ったが元亀2年に一向宗信者のため長島城とともに籠城、と言うといわゆる長島一向一揆だろう。
この後小稲葉の場所は特定できたが、まだ資料集めが必要なので部誌にて発表としたい

なお竹ヶ鼻城については羽島巡検その後である程度書いているので興味のある方はそちらもご覧ください
            →羽島巡検その後

さて最後の最後にどうでもいいことを言うと、今回備前屋という店の手風琴のしらべというお菓子を食べた
            →手風琴のしらべ
どこかで食べた味だと思ったら浜幸のジョン万エンケレセに非常に似ていた。どちらも美味しいので岡崎、高知を訪れた際は是非ご賞味あれ
          →ジョン万エンケレセ

令和2年度会長TN

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