頭でっかちになっていないか、“考える足”になりたい

先日、日本演出者協会の主催する「フェニックスプロジェクト」に参加してきた。東日本大震災の起きた2011年より毎年継続して開催してきたこの取り組みは、今年で9回目を迎える。
今回のタイトル『3.11を風化させない 〜あれから3000日、今何が起き、何ができるのか?〜』が示す通り、震災後まだまだ復興が追いついていない被災地の現状を伝え、忘れ去られないように今できることを、“演劇”という観点から賛同/参加者で探っていくという活動である。

震災当時の自分

参加者が輪になって行った自己紹介のテーマだった「あの日の私」で話したが、当時僕はまだ大企業の社畜…サラリーマンで、六本木にある東京ミッドタウンで働いていた。14時46分、確か10数階にいた僕は、最新鋭の高層ビルの耐震構造により、ぐるぐると滑る建物に船酔いに似た感覚だったことを記憶している。一瞬何が起きたか分からず、ただただ電話中だった得意先の人と「なんかヤバくないですか。。」と心ここに在らずの会話をしていた気がする。

そしてビルの放送が流れ、事態をなんとなく把握しながら階段で裏庭まで全社員が避難した。まだガラケーだった僕は僅かなニュース速報を頼りに状況を探っていたが、近くにいた人のワンセグを見たときに凍りついた。家や人が無残にも津波に流される映像だ。
ただ、9.11アメリカ同時多発テロのワールドトレードセンターに飛行機が突っ込んだときの映像のように、まるでSF映画を見ているようでそれが現実世界で起きていることだとは信じられなかった。

その後、余震がひとまず落ち着き、電車の運休やバスとタクシーの交通渋滞の情報が飛び交うなか、ケータイとパソコンを武器に戦うサラリーマンという戦士たちはなす術なくただただ裏庭でたむろしていた。
そして帰宅指示が出されると、歩いて帰路につく者、会社に待機して宿泊を覚悟する者とそれぞれの決断をしながら、都会と人間の脆さを痛感していたと思う…否、どこか非日常を楽しんでいたように見えた。

翌日からも交通網の麻痺や計画停電など多少の不便は感じつつも、次第に戻っていく日常にいつしか連日報道される被災地のニュースにも慣れてしまっていた。
(多少の募金などはしたものの)結局今の今まで被災地に赴いて救援活動をしたわけでも、何かの支援活動や事業を起こしたわけでもない僕は、ただの傍観者である。

その首都圏の高層ビルや電車の電気を賄っていたのが福島原発であった事実を事故後に知ることとなる勉強不足の僕は、いたたまれない責任感を抱きつつ、できる範囲で節電などもしてきたつもりだが、どれだけ想いを馳せても被害当事者ではなく結局他人ごとだ。

それが“あの頃の私”だ。

傷跡を風化させない演劇にできること

前置きで東日本大震災について思い起こしていたら既にnoteの右上のカウンターで1300文字を超えてしまったが…これから本題に移りたいと思う。苦笑

今回のプロジェクトでは、福島原発に関するルポライターや東北の演劇人による報告やシンポジウムと合わせて、参加者による演劇のワークショップを行った。
そのルポライターが取材したある消防士家族に起きた事実をもとに、各々で受け止め感じたことを演劇として創作するというものだ。もちろんノンフィクションの取材記事がある程度で構成や脚本があるわけではない。グループごとに分かれて、そのとき自分だったらどういう言葉を選びどう行動するかを考え、物語を紡いでいくのだ。
延べ2時間程度の話し合いと稽古で、ほぼ即興(エチュード)での発表となった。仕上がりについては言うまでもない。。苦笑

コミュニティの不都合な真実

そのワークショップの内容や結果はここでは多く語ることはしないが、日ごろ震災や福島原発のことについて考えている人もそうでない人も集まって、一緒に(座学ではなく楽しんで)創作活動を通じながら共感できることはとても意義のある取り組みだと思った。

ただ、誤解を恐れず言わせてもらうと、やはりテーマがテーマなだけに政治や宗教と同じで、捉え方や考え方などの主義主張・思想が色濃く出やすく、また角が立つ議論になりやすい。そのためか参加者もどこか想いの強い(自分の考えに固執しやすい)人が集まりやすい傾向にある気がする。もちろん自分も含めて。

そのため、グループでの演劇創作において短い時間のなかでも幾度となく摩擦が生じ難しさを感じたし、対談や討論には固定概念や多く偏見が見受けられた。
それはそれで、自分の意見を持つということは大事だと思うが、どこか洗脳や強要の空気を醸し出してしまう気がする。

よく「ポジショントーク」と揶揄する意味で使われることが多いが、それぞれ生まれ育った環境、立場や境遇も異なるなかで自分の思考が醸成されるもので、それぞれの“ポジション”での言い分なのは当たり前のことである。

“考える足”になりたい

(その空気・場づくりはファシリテーターの力量にもよるところがあると思うが…ぶっちゃけ笑)なんだかモヤモヤする時間となった。

(何かを成し遂げたわけではない僕が言える立場でないことは重々承知のうえで)そこに足りなかったものは、圧倒的に相手への理解と具体的なアクションだったのではないだろうか。

何事も結局どこまでが真実であるか突き詰める術もなく、その時点で自分の見える目の前の材料でしか判断できない。言ってみれば机上の空論でしかない。
放射能汚染がどこまで影響があるのか科学者の間でも見解が分かれるし、遺伝子組み換えは非難するくせにノーベル賞をとったiPS細胞は賞賛する。(タンパク質は一度アミノ酸に分解されてから取り込まれるからあまり関係はないみたいな記事も読んだことがある)
政治家を非難しても何も始まらないし、当事者にならなけれはその気持ちさえ分からないはずだ。

一億総ツッコミ時代でみんなニコちゃん大魔王(from『Dr.スランプ アラレちゃん』)になっちゃってないか。頭でっかちでそれだけでものを見て、食べて、用を足して、歩く。
僕は、頭だけで考えているだけではなく、“考える葦”ならぬ“考える足”、つまり具体的に動きながら考えられる人でいたい。そう改めて強く思った。

演劇の可能性

これがまとめになるとは思わない(お後がよろしいようでとはならないと思う)が、そういう意味では演劇は「人や物事への想像力で他の誰かに共感し、伝えたいメッセージを受け取りやすいかたちにして伝達し、次の世代へ継承していくことができる器」として大きな役割と可能性があると信じている。

無限のグラデーションである当事者意識を超えて、様々な価値観で分かり合うことができなくても、多様性を認め合う寛容ささえ持つことができれば、きっと平和で幸せな方向へと進んでいけるはずだ。

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有賀 雄規(やりが)
与え合いの恩贈りで巡る世の中になったらいいな。 だれでも好きなこと、ちょっと得意な自分にできることで、だれかのためになれて、それが仕事にもできたら、そんな素敵なことはないですね。 ぼくの活動が少しでも、あなたの人生のエネルギーになれましたらうれしいです。