日常を語るとき

移住を日常として過ごした現代美術家・村上慧さん

移住して数日経ちました。ただただ、日々の出来事の新鮮さに圧倒されています。日記はつけていますが、整理や抽象化が全く追いつきません。

そんな中、村上慧さんという現代美術家のことをよく思い浮かべます。村上さんは、自作の発泡スチロールの家を背負って、その家に寝泊まりしながら日本中を歩いた人です。震災をきっかけに定住生活をやめ、およそ1年間、移住を日常として生きました。その様子は「家をせおって歩いた」という日記形式の書籍にまとめられています。

借り物でない言葉の迫力

私は、この本を何年も前から愛読しています。移動(移住)先での日々が淡々と綴られ、村上さんによって確かに生きられた時間や場所、思考が刻まれています。素朴な文章ですが、ひとりの人間の借り物でない言葉の迫力に、何度読んでも心が震えます。大船渡のワイチさんのくだりには何度も泣きました。

なぜ日記なのか

移住して初めて、村上さんが日記という形式を取った理由がよくわかりました。おそらく、移住生活を終えた後に、抽象化して要点をまとめて出版する、という選択肢もあったのではと思います。ただ、同じことが二度と繰り返されない日々を生きた人にとって、それは、事実そのものを書き換えるに等しかったのではと思います。

残したかったのは、等身大の一瞬一瞬

村上さんにとって、何よりも愛おしかったのは、自分自身が生きた一瞬一瞬だったのでしょう。ほとんど野ざらしで一年を過ごしながら感じた雨の冷たさや、太陽の温かさ、人の親切や理不尽、季節の移ろい。そうしたかけがえのない一瞬を、当時の自分が切り取った言葉のままで留めておく。美化も脚色もせず、注意深く等身大でありながら。

物事を抽象化することは、話者を抽象化すること

物事を抽象的に語ることは、話者自身も抽象化する行為です。ひとつの個体としての「私」が匿名の私になり、私たち、我が国、人類、など、どんどん生々しい「私」から離れて行きます。それはときに、個人の生涯を超える長期的な発展に寄与するとともに、戦争などやっかいな問題も引き起こします。

村上さんの「家をせおって歩いた」を読んでいると、代えのきかない自分自身の生を生きるということが、どういうことなのかわかるような気がします。気になった方はぜひご一読を。

完全なる書評にお付き合いいただきありがとうございます。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?