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心に誓うとは誰の心に誓うのかということを改めて考えたら己の心なんだよね!
よく「心に誓って・・・」という言い方がされるんだけど、この誓っている時の「心」って、いったい誰の心になるんだろう?
なんてことを、ふと考えてしまったのですよね。(´д`;)
与えられた任務をやり遂げると宣言するときにも「心に誓って・・・」という言い方をするし、もう2度といたしませんというような場面でも「心に誓って・・・」ということを口にすることがあると思うのですよ。
そんなときの「心に誓って」いるのは、誰の心に誓っているんだろうか?
目の前にいる相手の心に誓うのか、それとも自分の心に誓うのか、その辺を深く考えたことが無かったんだけど、心や思いということを考えていてふと気づいてしまったんですよね。
あなたは、どう思いますか?
たぶんだけど、これって自分の心なんだろうと思うのですよ。
いや、間違ってたらごめんなさいなんだけど、天地神明に誓うというという言い方もあるから、本来は神とか天とか人智の及ばざるところに誓うというのが正解な気もするんだけどね。
でも、その天地神明を信じるというところからして、自分の心なわけだからたぶん自分の心に誓って・・・なんじゃなかろうか?
そう考えると、自分の「心」という存在が、自分を支配しているモノということになり、自分の生き方や行動規範の司令塔になるという解釈ができるわけですね。
ってことは、誓われたはずの自分の「心」を明確に認識していなければ、誓ったことが意味を成さないことになるわけで、自分の心をもっと大事にしなくちゃいけないよね・・・なんて思い至ったんですよ。(^_^)b
健全で平穏な心になるように意識していないと、いくら誓っても「心」が自分を支配し統率・制御してくれずに、誓ったことも忘れたりどうでも良くなったりするんじゃないか、っていう気がするんですね。
何を言うてるんじゃ!
そんな声も聞こえそうだけど、心に誓ったり、想い決めたりする時の主体は心にあるという認識を持つことが大事なんじゃ無いかと考えたんですね。
心が生み出す「想い」をもっと大事にしなくちゃなぁ・・・と。
人との交流も「思いやり」で、自分の思いを相手に「やる」ことで伝わるんだし、「気配り」だって、気をそらさずにきちんと周囲に注意(気)を向けて配慮するから、気を配ることになるんですよね。(^_^)b
いっとき「おもてなし」が騒がれて、さも日本人の心ばえの美徳のようなポジションを獲得したけれど、おもてなしより日本人が大事に守らなきゃいけないのが、「思いやり」と「気配り」なんじゃ無いかと思うのですよ。
3連休にのほほんと、いろんな事を考えていたら「心に誓うって誰の心に誓うの?」なんていう疑問が湧いてきて、詰まるところが「想い・思い」からの思いやりと気配りの話になったわけですけど、ね。
そんな流れで、noteの交流について書いたこの記事を紹介しておきますね。
スキなら片思いより両思いが断然いいよねっていうnoteの繋がり方の話。
ほんとに、そう思うけどね。
なので今日も思いを込めてこの記事を書いた・・・つもり、です。(^_^;)
ってことで、今回は
「心に誓うとは誰の心に誓うのかということを改めて考えたら己の心なんだよね!」という心と思いの話でした。
では!
思いやり 気配りしつつ のほほんと。
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