褒めて育てる、成長を実感するって

いつの頃からか、褒めて育てるということが非常に重要視されている。
この事自体には反論もないし、その通りだと思う。
いつの頃から、成長している実感を持たせて教育を行う必要がある。モチベーション維持も必要だし、できることが増えることでやる気もますから非常に重要であるということをよく言われている。
この事自体には反論もないし、その通りだと思う。
が、しかし、それは時と場合によりけりであり、必ずしも褒める必要はないし、成長している実感が湧かない状況に浸かっている状況も必要かと思う。

子供に対してはどうか

大きな違いとしては、精神的にも未熟であり自分で自分をコントロールできない子供たちにはとても重要な教育のやり方だと思う。褒めて延ばす、できることを増やしてやる気を増してあげる。とても大切です。駄目な事ばかりを言い続けても良くないと思います。
実際に褒めて伸ばす方が子供は伸びると思うし、それが正しいやり方だと思う。だって子供だから。精神面も知識面も

では、社会人に対してはどうなのだろうか。

新人君が初めて社会に出た時は、社会人として子供だから褒める、成長を感じさせることはとても重要だと思う。
でも、それは新人君が社会人として子供だと認めているから、オミソであることをみなが理解しているからのだと思う。
逆に言うと、社会人になっている一人前?の人を子供扱いしているという言い方にもなってしまうように思う。
でも最初からできないことが目の前にある状況を見せつけても仕方ないし、褒める、成長を感じさせることはとっても重要だし、異論はない。

では、仕事がある程度できるようになってきた人に対してはどうすれば良いのだろうか。おいらは俗に言うIT系の仕事をしているので、この業界では「覚えること」がとても多く、「早いこと」がとても重要視される業界である。日々進歩しているソフトウェア、ハードウェアの技術に追いつくことがとても重要である。
ここで問題なのは、仕事ができるということは「覚えていることが多く」「何かを早くできる」ことなのだろうかという素朴な疑問である。
もしそれが優秀な人、仕事ができる人というのであれば、おいらは最新の技術は覚えてもいないし、覚える気持ちもありません。
従ってその技術を使用して何かをすることは「とても遅い」状況です。
だとしたら、「知らない」「遅い」ことになる=優秀でない =仕事ができない ということになるのか。
なるはずはありません。

仕事に対するステージと時代の違いだと思う。

「記憶量が多い」「早い」ということが優秀ともてはやされるのは学生の時代にとても有効となる。一定の時間で以下に多くの問題に対して覚えていることを使用して正解を出すこと=点数を寄り多く稼ぐこと。これが優秀であることは間違いない。
で、最近言われている「考える力」という観点から見ると「知らないこと」「覚えていないこと」を考えることが必要となるわけだ。
ここで幾ら覚えていても、知らないことには対処ができないことになってしまう。
仕事でも同じで、単純な反復作業を行う(プログラム作成など)時は覚えていることが多くて手が早い人は優秀となる。
が、しかし、知らないことを、正解がないことを考える、設計する、創り出すというステージに来た場合には「記憶」は一定以上必要となるが、記憶がないと何かが出来ないのかというとそんなことはない。
知らないことを解決するためには逆に記憶が邪魔になることすらある。
この作業者からものごとを考えるステージに上がる時には、目の前に出来ないことばかりが出てくるわけだ。

時代の流れという観点

今はグーグル先生を使うとWeb上には正解(と思えるもの)が溢れている。それを正確に早く見つけることが出来る人が優秀な人になると時代が変化してきている。その昔は百科事典的な記憶力があると優秀だったのが、Webという情報の化け物が出てきてから、情報を捨てることが必要という皮肉とも取れない様な時代の変化がきている。
またもう少し時代が流れるとAIが記憶というものを全くの無効化してしまう時代が必ずやってくることは明白である。

一定の年齢になっている人はどうなのか

ある年齢に到達した人達、あるステージにこれから向かうべき人達に「褒めて育ている」「成長を実感する」教育というのはどの様にすれば良いのかということを誰か教えて欲しい。
常にできないことしかない、正解がないことしかない、何かをやると何かが出来ない状況になる。
2021年のコロナ禍の中で叫ばれている、経済か健康かという問題と一緒である。どっちをとってもどっちかが犠牲になるときにどう解決すれば良いのかという命題に向かうべき時に、昨今の教育の方向性では全く歯が立たない状況になっているのではないだろうか。

その様な状態になっている人に出来る実感を渡すためには、その人が成長してきた過程とその未来に向かっての成長曲線に沿った課題を出すしかないことになってしまう。
そもそもステージが異なる時には今までは[y=3x]という成長曲線だったものが、[y=-3x]という成長曲線を求められることになるわけだ。
この数式に当てはめると「できること[x]を増やす」と答えとなる[y]は最初の数式では増えるが、後の数式では減ることになる。
ステージが違うということは向かうべきベクトルが異なることになるので、従来の成長曲線の延長線上には全く出来る感覚が芽生えないことになるわけだ。

この様な状況になるときに、その本人が感じることは「やればやるほどできなくなる」ではないだろうか。
これがステージが異なる次元に来るという本質だと思う。

この様な時に「褒めて育てる」「成長を感じる」ことは一定期間出来ない状況になることは明白であり、より難しい命題になるために本当に成長するまでの時間と努力は単純にものごとを「記憶する=覚える」こととは比較にならない位の負荷がかかってしまうことになる。

ではどう教育すれば良いのか。

おいらは単純だと思っている。
そこに有る事実を目の前に積み上げるしかないと思う。
できること、できないことの事実を積み上げて行く。
それを旦念に一つ一つ積み上げて行くしかない。
と思う。
それに併せて、「できないこと」「できていないこと」を許容してあげること
この両輪だと思う。

元々できないことをやろうとしている訳だから、できないことを見ないでは出来るようになるわけはない。
でもそれでは滅入ってしまうのは当たり前だからできないことを許容する必要がある。

でも、それまで「記憶すること」「できることを増やす」という観点で努力をしてきた人が、この状態に慣れるまでには非常に時間がかかってしまう。
この悶々とした時が、まさに成長している時だと思う。
その様な状況になっている時に、励まし、許し、時々休みながら、一つ一つの積み上げをしていくことが真の教育だと思う。
この様な状況になっても「褒める」「成長を実感させる」というのは、その相手を子供扱いしているだけになるような気がして仕方ないんだ。

両方の努力が必要ではないか

それは教える側の努力も必要だが、教わる方の努力も必要であると思う。
趣味の世界でも仕事の世界でも壁に真面目にやっていると必ず壁にぶち当たる訳だ。
で、壁を超えるための正解は1000人いれば1000通りにやり方があるわけだ。
むやみやたらに動いても駄目な時があるわけだ。

この様なことを、新人の時から少しずつ確実に伝えて、この考えを共有していかないとどうなるのか。
35歳課長になったその直後に、メンタルダウンで休職する。てなことになってしまうのだろうと思う。

特効薬なんてないじゃん

成長を感じたいのは誰もが同じだし、やりがいも感じたいのは誰もが同じ。
苦しまずに成長できるのであれば、成長できる特効薬があれば、それを処方してあげたい。
でもそんなものは世の中のどこにも転がっていないことを若いときから教育をしなくなっている日本という国。
この先本当に大丈夫なんだろうかと思ってしまう今日この頃です。


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