病んでるヤブ医者元谷さん #3「エス」
高橋宅のマンションから程よく離れた場所からバイパスを経由し、永井の車は高速に乗っていた。
トヨタマークⅡセダン。1990年8月改良型、ブラウンカラー。
高橋は永井の車に乗るのは初めてだったので、丁寧に手入れされていることに、永井の印象とのギャップで少し驚いていた。
シートは革製で、薄く傷跡がついている。
タバコとコーヒー、オーデコロンの香りが微かにする。
通常ならカーナビがついている部分に、カセットテープやCDを入れるスロットや、ラジオ用と思しきつまみがいくつかついている。
他にも今の車とは全く違う様相を呈している永井の車に、高橋はしげしげと観察していた。
そうやってようやくわずかに冷静さを取り戻したと思しき高橋を見ると、永井はカーステレオのスイッチを押した。
「…落ち着いたか?」
「・・・・・」
高橋はそう聞かれると余計に悔しさが燃え上がってきたようで、手をぎゅっと握りしめる。
「さっきの、ツテについて話したいところなんだがな」
「お前さんがそんな調子でいられると、こっちも調子が狂うのよ」
「だからよ、とりあえず俺の昔話を聞いてくれねぇか?」
「永井サンの…ですか?」
「お前サンと仕事するようになってからもう随分になるが、こういうタイミングなんて一回もなかったろ?」
永井は後ろから高速で飛ばしてくるSUVをフェンダーミラーで確認すると、慣れた手つきで左車線へマークⅡを滑らせた。
「だからよ、オジサンの昔話に付き合ってくれや。」
永井は少しスピードを落とすと、これまた慣れた手つきでハンドルを持っていない左手一本で、センターコンソールからショートホープを一本取り出して口に加え、安っぽいライターで火をつけた。
「俺よう、昔捜査一課だったのよ。」
ハンドルを左手に持ち替え、空いた右手でドアについているレバーを回し、窓を開けた。
生ぬるい風がふわっと入ってきて、ごくわずかに甘いタバコの煙が車外へと吸い込まれていく。
「岡島とは、そこそこ…いや、かなり仲が良くってな」
「専ら岡島が現場を押さえて、俺が手がかりを手繰って解決するってぇ具合に、一課じゃあ若手の有望タッグみたいに吹聴されて、俺たちも悪い気はしなかった。」
高橋はタバコの香りに慣れてきたのか、永井のなだらかな運転のせいなのか、少しだけ気持ちが安らいできて、口元がゆるんだ。
「それで、どうして今は安全課に?」
「ああ…それな」
「俺な、そん時にカミさんがいたのよ」
「ミワコって言ってなァ、ちょっと見てくれは悪いが、いい女だった。」
「一目惚れだった。サ店でプロポーズしたときは、そりゃあどんなヤマよりも緊張したさ。」
「岡島とも…3人でキャンプに行ったっけか」
隣の車線をトラックが走り抜け、ぶわっと風音が鳴る。
「そのうち妊娠してな。嬉しかった。俺たちは幸せだった。」
「そん時にちょうど、俺と岡島はデカイヤマにぶち当たった。」
「コロシですか?」
「いや…」
「平成7年って、お前生まれてたか?」
「ええ、まあ2歳くらいですけど。俺5年生まれですから。」
「地下鉄サリン事件」
永井はショートホープをもう一本吸い始める。
「地下鉄での大惨事が起こってから、例の教団の幹部を俺たちは追ってた。」
高橋はいきなりスケールの大きな話が飛び出してきて、面食らった。
「さっき岡島が俺の事なんて呼んでたか、覚えてるか?」
「たしか、”エス飼いの永井”でしたっけ」
「意味、分かるか?」
「エス…スパイの頭文字ですかね?内通者とか?」
永井はいきなり左手で高橋の頭を強引にぐしゃぐしゃと大型犬のように撫でまわし始めた。
「ちょっ!なにするんですか!」
「いやなァ?お前サンやっぱし脳みそ一杯詰まってんだなァってな!ハハ!」
「ハンドル!ハンドル!永井さん!ハンドル!!」
◇
曲が入れ替わる。
掛かっているテープは、どうやら永井が独自に編曲したようだった。
「あ、これ。」
「なんだ、お前スピッツ知ってんのか?」
「そりゃ、まあ。普通に。」
「そうかァ・・・」
「あんときもこれ、張り込みン時かけてたっけなァ…」
永井は遠い目で向うを見つめると、シフトレバーを動かしてからウインカーを右に出し、中央車線にマークⅡを乗せてスピードを上げ始める。
スピードメーターからは、聞きなれないキンコン、キンコン、という音が鳴り始めた。
「で、なんだっけ」
「”エス”の話ですよ。」
「ああ、そうだったそうだった」
「俺は当時、運の良いことに芋づる式にほうぼうにツテを作っていけててな。」
「俺たちタッグの有力な情報提供者として、力になってもらってた。モチロン、表沙汰には出来ないような連中とも取引するのはザラだった。」
「ヤクザ、闇ブローカー、女衒、詐欺師、闇金融… どれも俺たちが口外すれば即おナワな奴らだったが、俺は俺なりにケジメを付けて向き合っていた。」
「と、言うと?」
「奴らは奴らなりに、ひとりひとりしっかり人間やってたってことだよ。好き好んでそのテの道に進むような奴ってのはごく一握りで、他はどっかに疵を抱えて、”そうせざるを得なくなっていた”血の通った奴らばっかりだったんだよ。」
「俺はそいつらを理解しようと真摯に腹割って話したら、皆協力してくれた。 コトが済んだあと、アンタのおかげで足が洗えてまっとうに生きられる、ありがとうなんて感謝された日にゃ、嬉しかったなァ。」
高橋はいつもの永井からは想像もできないようなエピソードが次々と飛び出してきているのに唖然としてはいたが、それでもしっかりと傾聴していた。
「お前は、どう思う?」
「例えばコロシをやった団体がいたとして、主犯と指示した奴はクロだ。ブタ箱にブチ込んでやらねェと、ホトケさんに申し訳が立たねぇ。」
「だが、そこの木っ端みてぇな下っ端はどうだ?」
スピードメーターのキンコンという音は、次第にテンポがわずかだが少しずつ上がっていく。
「そいつらは、俺たち警察に力を貸してくれたとして、クロか?」
「シロだと思います。」
「俺も、そう思う。俺はそのポリシーを据えながら、この手口を使うようにしていた。そうしてたらいつの間にか”エス飼い”なんてあだ名がついてたっけワケだ。」
「で、だ。」
何本目かになるか、永井はショートホープに火をつけて続ける。
「教団にもエスがいた。俺と岡島は、そいつから情報を得て、幹部の足取りを順調に追っていけていた。全ては順調だった。」
「奴らがやったことは許されねえことだが、俺はそのエスは、今までのように悪くはねえと思っていた。」
「そしてある日、エスの助けもあって、ついに幹部のシッポを掴めた。」
「俺と岡島は、奴らの詰め所にカチこんで、やっこさんにワッパを見事ハメることに成功したのさ。」
「諸々の処理が済んだのがちょうど6時半ピッタシ、晩飯前にはウチに帰って、ミワコに会えるはず、だった。」
「えっ…?」
「家の前には、別部署の奴らが大勢居た。俺は何が何だかわからずに、そいつらに尋ねると、奴らは俺にワッパを掛けた。」
「まさか…!」
「ああ、そんときの”エス”はミワコだったんだよ。」
◇
「ミワコの母親が教団の熱心な信者でな。総本部にも頻繁に出入りしていたのもあって、ミワコのほうから俺に話を持ち掛けて来たんだよ。」
「ミワコは逮捕され、投獄された。俺も重大な規約違反を犯したとして逮捕され、禁錮を喰らった。」
「でも、どうしてミワコさんを!?幹部はその日、逮捕されたんですよね?!」
キンコンという音は早く、早くなっていき。
「・・・まさか!?」
「岡島がやったのさ。」
「アイツはわかっていながら、俺の告発とミワコの情報を上層部に流しやがった。」
「その功績が認められ、奴は警視正へと大出世を果たした。」
「俺は1か月後、留置所の中で・・・」
「ミワコが拘置所内で流産したこと、その後警察病院内で飛び降り自殺したことを知らされた。」
午後11時を回る幹線道路には、永井のマークⅡ以外の車の姿はなく、
古めかしいエンジン音が静かにこだましていた。
「俺は岡島が憎かった。だが、法外な手口をやりくりしていたのは紛れもない俺だ。」
「もしこのことが明るみに出れば、世論は間違いなく俺を絞め殺すだろう。」
「当時の警視総監はそう言って、口止めを条件にして今の安全課に俺を左遷した。」
高橋は、怒りに打ち震えて拳を膝にたたきつけた。
「なんで黙ってるんですか!?岡島も同罪でしょう!?」
「それを証明する手立ては?」
「・・・」
永井はふーっ、と煙を吐くと、灰皿に吸殻を押し付ける。
「さて、シメっぽい話は終わりだ。済んだことは済んだ。」
「だが、こんなザマになっちまった俺でも、まだ救える命がある。」
高橋は向き直ると、永井の目は真っすぐと真剣に前を見据えていた。
「岡島は、恐らくクロだ。 今回の件でも原着は奴が何故か先だった。」
「証拠をもみ消したかなんかしたんだろう。すると奴の捜査本部はハリボテ同然になる。」
「俺たちでなんとかするしかない…ってことですよね。」
「おうさ。こっからはシクれば大目玉どころじゃ済まねえマジの綱渡りになる。それでも乗るか?たか――」
「やります」
高橋は永井が言い終わる前に即答した。
「どんな手を使ってでも、菜由美を見つけてみせます。」
「カハハハッ!いいねェ!!」
永井はまた頭を強引に撫でまわし始めた。
「ちょっ!やめっ!やめてッて!永井サン!」
「『真・高橋奈由美捜査本部』結成だァ!」
ハンドルが曲がり、タイヤのスキール音が幹線道路に響いた。
マークⅡは、バイパスへと向かうべく車線を移動した。
◇
「で、どうやって菜由美チャンを見つけるか、についてなんだがな」
「エエト…その…俺の…”エス”…によるとだな…?」
高橋は妙に口ごもっているのを不思議がっていると、永井は咳払いをした。
「菜由美ちゃんは家を出て最後、病院に向かった可能性が高い。」
「病院…?ですか?」
「ああ、なんでも、最後に目撃された際は風邪をひいていたらしい。恐らくはそれの治療のためだから、内科あるいは耳鼻科になるだろう。」
「菜由美チャンの財布はないわけだから、かかりつけがどこだとか、そういう情報はない。ローラー式に近くの場所をアタって行くしかないわけだ。」
高橋は手帳に情報を書き留めていく。
「で!こっからが問題だ。」
「今から、今回のヤマにあたって重要な”エス”にお前さんと顔合わせに行く。」
「その人は、どんな人なんですか? 裏情報屋…とかですか?」
高橋はペンのノック部を永井に向ける。
「あー…そいつはな」
「医者だ」
「医者…ですか?担当分野は…内科ですか?」
「まあ…会えばわかるよ」
妙な仕草を見せる永井に、高橋は困惑しながらも、
両手で頬をぴしゃりと叩いた。
◇
同時刻、元谷はシャワーを浴びていた。
永井からのメールではあと数分でこちらに来るらしい。
「それだけ、切迫しているということ―。」
元谷は丁寧に全身を洗い流すと、脱衣所に入り体をタオルで拭った。
身体には、おびただしい数の傷痕があった。
背中、胸、肩、腕、手首、脚。
加えて。
「よっ」
彼は、右足下肢に着けていた、脚として最低限の機能を有している簡素な造りのシリコン製義足を外し、フットシェルが付いたセラミックチタンカーボン合金製の義足に付け替えた。
プシュン、という音とともに、元谷は僅かに顔をしかめる。
足首を上下左右に動くことを確認し、来客に備えてシャツに袖を通す。
元谷は居室に戻ると、シェルフラックに立てかけている本に手を伸ばす。
背表紙には、「ジークムント・フロイト著『自我とエス』」と書いてある。
元谷は、なんとなくこの本を無造作にめくり、こう読み上げた。
”『ゲオルク・グロデック』は、「われわれが自我とよぶものは、人生において本来受動的にふるまうものであり、未知の統御しえない力によって「生活させられ」といる」、と繰りかえし主張しているのです”…。
ぱたりと本を閉じると、元谷はミネラルウォーターを喉に流し込んだのち、
「そんなこと、誰にだってわかるものではないのですよ」
ぽつり、とこぼした。
第三話 「エス」 -終-
画像は「notake」様の「一癖おじさん」を使わせていただきました。