『令和のソクラテス』こと 西納はすみ先生に、「おね∞しょたのすゝめ」を評論してもらった
タイトル通りです。
https://note.com/yaponsuki3/n/nf94a4f12349f
↑「おね∞ショタのすゝめ」はこちらから
書いてもらったのは、私の親友である「西納はすみ」御大先生になります。
今年の頭から毎日のように連絡を取り合っている大切なお友達で、
僕にはない斬新な感受性を持っているとても賢くて素直で素敵なひとです。
さっそく寄稿いただいた評論を以下に記述します。
はじめに
本論の構成の特徴としては筆者から架空の想定読者への語りかけが多用されていることが挙げられる。
本批評では論が進むにつれ筆者が語りかける想定読者の変遷が
まさにおね∞ショタと同型であるといった、
エクリチュールとシニフィエの自己相似構造を指摘することを目標とする。
(エクリチュール→哲学における「社会的に規定された言葉の使い方」
簡単にいうとオブラートに包まれたその人なりの語り口?と言ったところ)
(シニフィエ→言語学における「意味されているもの」
類語として、「意味するもの」を指す『シニフィアン』が存在する。)
(エクリチュール(ことば)とシニフィエ(意味)は、
お互いに影響し合う関係にあります。
エクリチュールはシニフィエを表現しますが、
その過程で新たな意味を生み出し、
結果として両者は似た構造を持つことになります。
簡単に言うと、書くことと意味は鏡のような関係にあり、(自己相似構造)
お互いに映し合いながら発展していくということです。)
読者の感情の変遷
まずは本論全体を通して、想定読者のおねショタへの態度がどのように変遷していくのかに関して記述していきながら双方における用語の対応関係を見ていこう。
第一段階:おねショタに対して完全に無知
おねショタについて何もしらない恥知らずの豚に対して、おねショタを教え込むことをまえがきにて宣言している。
当然ここでは想定読者はおねショタについて完全に無知であるとされており、そのような仮定は性知識に関して完全に無知であるようなショタの姿をおぼろげに想起させる。
本論において想定読者への注目を促す煽り文句として”エスカレーターで上にいるお姉さんのミニスカートくらい刮目してください”といった性のニュアンスが強い文章が使用されている事も象徴的であり、
想定読者のおねショタへの眼差しがショタのおねえちゃんへの眼差しと相似的なものであることが示唆されている。
また同様にして、おねショタについて知識を与えてくれる筆者 / 性知識を手ほどきしてくれるおねえちゃんといった構造の類似性も見えてくるだろう。
これらについては後半で詳しく見ていくことにして、ここではそのような類似性を指摘するだけに留めておく。
第二段階:おねショタに対して強く批判的
『嵐』が去った後に、無知であった想定読者はおねショタがどのようなジャンルなのかを理解し始める。
そして本論中でのその直後の反応は主に「嫌悪」である。
本文中の表現で嫌悪のニュアンスが強いものを引用すれば、
”歳離れすぎてない?コレ犯罪でしょ?親方に電話させてもらうね”、
”ガキがウブがってるのが嫌い、キモイ(インスタグラミングメスゴリラ(死ね”
などが挙げられる。
ここで少し論旨を先取りするのであるが、
本論の想定読者は以降でおねショタへの態度を
「受容」→「困惑」→「自立」へと変遷させていく。
本批評の筆者は残念ながらおねショタというジャンルに詳しくないのであるが、おねえちゃんを通じて性知識に初めて触れたときのショタの反応が「嫌悪」という展開の作品はおそらく存在する。
そして、その後の展開がショタのおねえさんへの
「受容」→「困惑」→「自立」というシナリオを考えることは容易だろう。荒い筆致でラフにシナリオを考えてみるのであれば例えば以下のような構成が考えられる。(ショタ役の設定については『嵐』を踏襲させていただいた。)
おねえちゃんから性的に眼差されてしまったイツキ君は、
そのあまりの生々しさや自分自身の覚えのないギラついた感情に一度はおねえちゃんを拒否してしまう。
しかし後日おねえちゃんから性が愛の技巧であること、愛し合う者同士の自然な行為であることなどを甘々に説得されて、しだいに自分の性やそれに伴う欲望/加害を受け入れ始める。
おねえちゃんが主導してイツキ君は精通を果たすが、おねえちゃんに頼りっぱなしでやられ放題の自分自身の情けなさや「こんなままじゃお父さんのようになれない」といったコンプレックスから「おねえちゃんに頼られる自分になる」ことを決意する。
サッカーに対する打ち込みのように努力を重ねたイツキ君は一人前に精神的に成熟し、後日におねえちゃんとの再びの逢瀬を果たすのであった。
つまりは本論の構成自体がおねショタジャンルの一つの変奏として解釈できる可能性に注目して欲しい。
本論を読む我々はおねショタについての知識を獲得しながら、同時におねショタのただ中に放り込まれているのだ。
第三段階:おねショタの受容
「おねショタの魅力について」の節が転換点となっており、
おねショタに関して無知で批判的であった想定読者がおねショタを受容し始める。
ここで想定読者が立場の転換を果たす鍵となる概念は「おねえちゃん概念の包容性」だと考えられる。
筆者はこの節において想定読者の属性として、現実や社会と格闘してボロボロになっている弱者男性といった属性を持ち出してきている。
人間福祉の感覚を持つ者であれば当たり前に同意してくれることと思うが、そのように深く傷ついている者には同情や慰めが必要である。
そうした地平において本論の想定読者は「おねえちゃん概念の包容性」に出会うのである。
これはあたかも『嵐』においてサッカーの練習でボロボロになったイツキ君がおねえちゃんに出会うようである。
また前節を受けての「おね∞ショタってなんだよ?」の節(これは想定読者からの語りかけの声として解釈出来る)からは、
「おね∞ショタ」といった新規性のある筆者の造語が登場しており、
本論のタイトルにも「おね∞ショタ」がある通りこの節が論旨全体で重要な地位にあることが分かる。
第四段階:受容しつつあったおねショタへの困惑
「おねえちゃん概念の包容性」の魅力についてはある程度の理解を共有していた想定読者であるが、
「おね∞ショタ」概念についてはその必要性を理解出来ておらず
「なんでそんなもんが必要なんだよ?」(これも前段階と同様に語りかけの声として解釈出来る)の節が登場してくる。
この節では本批評において論旨全体で重要な地位にあると判断した「おね∞ショタってなんだよ?」の節の内容の補強が主に行われている。
注目してほしいのは本節における筆者の語り口が非常に配慮に富んだものであることにある。
本論の前半を思い返してほしいが、
これまでの筆者は主に想定読者に対して決して配慮があるとは言えない扱いを行ってきた。
しかし本節においては、おねえちゃんに出会ってしまったショタの人生や心の傷への配慮、おねショタを整合性のある物語として享受したい読者への配慮、ショタおねは下衆ではなく友情劇であるといった別ジャンルへの配慮などがなされており、まさに配慮にあふれている。
これはあたかも、普段は雑でいい加減なおねえちゃんが、大事な瞬間だけは、大切な話をする時だけは優しくて蕩けるようなトーンになるのと類似ではないだろうか。
ショタの相似対象である想定読者の我々は、ここでそのギャップに対して困惑しつつも開かれた心持でおねえちゃん(=筆者の相似対象)に対して共感したり理解を深めていくことが出来るのである。
第五段階:おねショタ概念を巡り筆者と対等な位置に立つ
前節の「なんでそんなもんが必要なんだよ?」を最後に、想定読者からの語りかけだと判断できそうな文章は本論に登場しない。
ただし最後の「まとめ」の節において筆者から想定読者に対して「おねショタのありかた」への提案の声が登場している。
ここで重要なのはこれが「~でしょうか」の形をとる提案の声となっている点にある。
これまでを振り返ってみると、筆者と想定読者の関係は教える側と教えられる側、知識がある側と無知の側、説得する側と反抗する側といった関係性であり、常に筆者に対し想定読者が劣位にあった。
しかし最後の節に至り、筆者が提案の形をした文章を想定読者に投げかけている。
これは想定読者を一人の自由意志と責任を持った個人とみなし、自らの意思に基づいて立場を選択してほしいといった筆者の願いであり、ここにおいて筆者/読者の優位/劣位の関係性は完全に解消され各々の対等な関係性が立ち現れてくるのである
おわりに
さて以上で想定読者の本論を通じての変遷は記述し終えた。
上述した内容でほとんど本論とおね∞ショタ概念の同型対応についてはあたりがついているとは思うが、
簡潔に整理した形でそれらを提示することで本批評を閉じよう。
まずは以下のような対応関係を考えてもらいたい。
本論:おね∞ショタ
想定読者↔ショタ
おねショタ↔性知識
筆者↔おねえちゃん
これらを踏まえたうえで同型構造が見えやすいように、
おねショタ及び本論の概要を文章にすると以下のようになる。
おね∞ショタ:性知識に関して無知であったショタが、おねえちゃんの手ほどきを受けて性に関しての知識を獲得していく。
初めはおねえちゃんに教わる一方だったショタも最後にはおねえちゃんと対等な男としての立場を獲得し、おねえちゃんとショタの間に成熟した個人同士の関係性が構築されることによって物語が終わる。
本論:おねショタに関して無知であった想定読者が、
筆者の解説を受けておねショタに関しての知識を獲得していく。
初めは筆者に対し劣位であり続けた想定読者も最後には筆者と対等な関係性を獲得し、筆者と想定読者の間に成熟した個人同士の関係性が構築されることによって本論が終わる。
どうだろうか。
ここにおいて我々は
エクリチュール(=書かれたものそのもの)と
シニフィエ(=書かれたものが指す意味内容)が相似な構造を有しているといった、あまりに鮮やかな本論の構成を発見するに至るのである。
いかがだったでしょうか?
すごくないですか?
当人曰く、文字を書くのは疲れるのであまりやりたくない…とのことなんですが
はすみ先生の書いた文をもっと見たい!とか、本評論の感想は、ぜひはすみ先生のXまでお送りください!
それでは!