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「心疼」:痛みとしての愛情|『闇の中国語入門』補遺

※本記事は拙著『闇の中国語入門』(ちくま新書、2024)に収録しきれなかった項目を記事化したものである。

心疼

①(子供などを)心がうずくほどに慈しむ,かわいがる
(金銭などを)惜しむ,大切に思う.

※白水社 中国語辞典 より引用

例文

①看着伤心的他,我很心疼。
(悲しそうにしている彼を見て、心が痛む。)

②他很心疼自己的孩子。

(彼は自分の子どもをとても可愛がっている。)

他心疼地看着被撞坏的汽车。
(彼は残念そうにぶつけられて壊れてしまった自動車を見ている。)

她是这个世界上最心疼我的人。
(彼女はこの世界で私のことを最も大切に思っている人だ。)

解説

「心疼」に関して、辞書では「心が疼くほどに慈しむ」、「可愛がる」とあります。あるいはモノを惜しむ気持ちを指すこともできます。これを日本語の心が痛むという表現と比べると、明らかに形容する範囲が大きいということがわかります。さらに、範囲が大きいだけでなく、そのイメージも大きく異なっています。

「心疼」という言葉の実際の使用において、何よりも強調されているのは、対象を大切に思う気持ちに他なりません。詳しくみていきましょう。

中国語の「心疼」も日本語の「心が痛む」も、いずれも確かに一種の共感です。例文①にあるように、相手の悲しみや苦しみに対して、自分の心も痛む、もしくは疼くという共感の気持ちが生じているということです。しかし、考えてみて欲しいのは、「痛み」というイメージは何によって引き起こされるのでしょうか?

日本における「心の痛み」とは、自分自身の悲しみや苦しみは当然だとして、相手の心が傷つけられること、特定の状況の中で苦しんでいることに対して、その傷つきと苦しみを我が身でもシンクロして、同じような痛みを感じるということだと言えます。それはすなわち、痛みはもっぱら(自分や他者の)傷つきや苦しみによって引き起こされるとイメージされているのです。

他に何があるというのか、と疑問に思うかもしれません。中国語の「心疼」を見てみましょう。

「心疼」の場合、辞書にあるように「心が疼くほど慈しむ」という意味があります。例文の②と④がその用例に当たります。

個人的な例を出しますと、自分の6歳の子どもが遊んでいたり、話したりしているのを見ると、突然「なんて愛おしいんだ」という激しい気持ちが噴き上がることがあります。

その場合、その気持ちがあまりも大きくなりすぎて、処理しきれなくなったと感じるようになります。その巨大で激しい感情によって満たされ、さらに爆発しそうになるほどに膨らむことによって、心が疼くという感覚が生じます。言い換えれば、それはポジティブな感情の過剰さによって生じる痛みだということです。

他にも例えば、思春期に恋人や恋心を寄せる人に対する気持ちとして、「胸がぎゅーっと締め付けられる」ような感覚があります。それは痛みの感覚ではあるが、愛おしいという感情の過剰さによって引き起こされるものです。ただ、日本語ではそれを明確に「痛み」としてイメージされ、言語化されることはないところに違いが生じています。

それに対して、中国語の「心疼」においては、痛みをもたらすのは何も傷や苦しみといった否定的な感情だけではなく、過剰なポジティブな感情の場合もあるということを明確に表現するものとなっています。

ここでいうポジティブな感情というのは、相手や対象を大切に思う感情にほかなりません。言い換えると、それは相手や対象に大きな愛情または価値を感じているということでもあります。

その意味で、「心疼」とは何よりも相手や対象の価値を認め、その価値の大きさを自分が強く感じているということを強調する言葉になります。さらに、そこから発展して、相手の価値が何らかの理由によって傷つけられ、貶められることに対する恐れや憤慨の感情も含まれています。

例えば恋人同士のあいだでも「心疼」「不心疼」が大きな「争点」となります。もし自分が苦しい状況にあったり、傷ついたりしているのに、相手のなんらかの言動(慰めない、憤慨しないなど)が「不心疼」の表現と受け止められてしまうと、それこそ関係性の危機にまで発展することもあります。

したがって、「痛み」とは二人(あるいはそれ以上の人数)の間をつなぐ重要な絆でもあるのです。

このように比較してみると、相手を大切に思う気持ちというもののイメージが広がるように思いますし、心が痛むのは必ずしも不幸や苦しみを経由しなくてよい、あるいはそういった悲劇的な物語(いわゆる感動ポルノ)に「依存」しなくてもいいということが見えてくるように思います。

また、「失ってはじめてその大切さがわかる」という言葉がありますが、それは多くの場合非常に的確に人間の欲望のあり方を言い当てているとしても、やはり一面的だと言わざるを得ない。

「心疼」という言葉を日本語の「心が痛む」、「胸が痛む」と比較することで、「痛み」というネガティブなもののポジティブな側面、さらにより一般的にネガティブとされている物事の潜在的な可能性も見えてくるように思います。

「痛み」とは、幸せの過剰によってももたらされうるものであり、その限りにおいて、積極的に痛みを求める、大切に思うものを増やしていくべきだという考え方も可能です。その痛みこそ、愛情と幸福の証になるのですから。


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