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 100年の孤独と生き様。

美容院で毛染めをしている時間に、美容師の友人が四柱推命のアプリで占ってくれました。

「大器晩成。79歳でブレイク。おお100歳を超えるぐらいの寿命やね。」

「・・・」

以前、別の占い師からも長寿だと言われたことがあります。実際、私の家系は90歳半ばまでの長寿の人が多いのです。

79歳のブレイクとは、正直、別にどうでもいいのですが、70歳でアンパンマンで脚光を浴びたやなせたかし先生より遅咲きだなと、「ぷぷぷ」と1人でウケました。

問題は100歳のほうです。以前読んだ「ライフシフト 人生100年の人生戦略」の本のタイトルが頭をよぎりました。残りの約50年、どんなふうに生きていけばいいのだろう。

私の友だちは、年上の人が多いから、おおよその友だちは鬼籍にはいっているでしょう。もし私が100歳まで生きて、頭がしっかり動いているなら、私はたくさんの友だちを見送っていかねばならいのです。

長寿を喜ぶより「寂しい」気持ちがあふれてきました。
ふと手塚治虫の「火の鳥」を思い出しました。この物語は火の鳥の生き血を飲めば、不老不死になることで、火の鳥と人間との関わりの中で巻き起こる物語です。長寿が喜ばしいことか残酷なことか、この物語ではおおいに考えされるのです。

多くの障害者をもつ親が「死んでも死にきれない。」と思っていますが、私が長生きすることで、知的障害者の息子より長生きして、彼を見送れるかもしれません。親としての責任を全うできる可能性があります。しかしこれも高齢になった私は身体と頭が正常に機能していればの場合です。

ある人のことを思い出しました。彼は妻や子に先立たれ、見送ってきました。それから何年かして孤独に亡くなったと聞きました。私は彼の人生を不幸で可哀想だと思っていました。

後に彼が、家族に疎まれ傲慢に生きてきたことを知りました。彼の孤独な晩年は、家族の死を見届けなければならない「業」だったのかもしれないという考え方に辿り着きました。そのために家族よりも長く生かされていたとは、ある意味においては残酷です。しかし彼の生き様そのものが、死に様だった。それが彼の人生そのものだったという結論に達しました。

私が家族よりも長く生きたならば、もしかして私も彼と変わらない「業」のためかもしれません。しかし私は、彼の生き方とは違う生き方をしているつもりです。より一層、私の人生を生きてみようと思いました。

もう1つ、100歳になって、みんなが死に絶えるわけではありません。友だちの子や孫、新しい友だちがいるはずです。孤独を思う時、私はいつもロンサム・ジョージを思い出します。私たちは、最後の個体となって、長く生き続けたロンサム・ジョージはないのです。

100歳まで生きれるかなんて誰にも分からないけど、
今日も生きていきましょう。

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