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悩みも不安も天に投げてみよう。

20代のころ、人の悩みを受け止めた挙句、何人かに乗っかかられて潰れそうになりました。正面から悩みを受け止めすぎるので、適性がないとカウンセラーなどの職業は選ぶことはありませんでした。

人と距離を保ち合い対するように気をつけてきましたが、そもそもがお節介体質なので、私に乗っかってくる人がいました。申し訳ありませんが、距離感を保てない人からは、自主退避してきました。

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50代になり人の悩みに寄り添うお役目につくことになりました。承諾しながら「おいおい大丈夫か?わたし」自分にツッコむ私がいました。

それでも了承したのは、20代のころと違い「人の悩みなど、おいそれと解消できるものではない。」ということが理解できたからです。悩みを傾聴しますが、おいそれと人の悩みなど解消できるものではありません。人は生きている限り、悩み続けるのです。でも心の奥底に溜まった気持ちを吐き出すと心は軽くなるし、人と言葉を交わすことで、新たな考えも浮かぶ可能性もあります。

歳を経て「考えても仕方ないことは、天の神様、仏様に投げればいいさ〜」と思えようになれたので、私自身の気持ちが楽になれたのです。おそらくそのために人類には信仰というものがあるのでしょう。(相変わらず、私は特定の信仰は持っていませんが)

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悩みを解決するのは、本人の考え方次第なのです。神や仏や、カウンセラー、相談員、占い師ではないのです。彼らに対していくうちに、自らで見つけていくものなのです。

私は昔から占いや不思議な話は大好物ですが、いつしか占いは必要不可欠ではなくなりました。単純によい言葉は信じて進み、よくない言葉には自重し謙虚に生きるようにしています。

すると自分は強運な人間だと思えるようになりました。衣食住は確保されていますし、友だちや出会う人は良い人ばかりです。子どもの頃から思い描いた夢は一通りが叶っているし、欲しいものは大抵手にしていますから。

それでも新たな悩みや不安は、毎日生まれてきます。クヨクヨしたり泣き言をいうこともあります。でもそれが「生きている」ということのなのだと思えるようになりました。

夫に死なれて、障がい者のある子どもを持つ無職の私は、世間的にこの世の不幸を背負った人間です。身の上を話すとみなさん「可哀想」「お気の毒」と言った何ともいえない表情をされます。背景上、幸薄いキャラを想像されますが、お話をするうちに、よい意味で人の期待を裏切っていくのです。

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「老病死」は人間が避けることのできない、この世の苦悩です。私の周囲の人が誰一人欠けても私は嘆き悲しむと思います。でも失った時のことを思い不安になるより、生きている間に会いに行こう、一緒の時間を過ごそうと思うのです。

春になったら、大学時代の友人を訪ねて長崎を訪問する予定です。10年以上、再会を先伸ばしてきましたが、友人の入院を機に会いに行きます。

私と同じ考えの友人も北海道から合流する予定です。病を抱えている彼ははいつも「もう会えなくなるかもしれないから、行けるうちに行くよ」と言います。昨日は沖縄の友人を訪ねたと聞いています。

私たちは「今を生きているのです。」

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悩みも不安も苦しみも、この世に生きている間の期間限定です。誰かに話してみればいい、歩き出す元気がないのなら休めばいい。そして小さな幸せを見つけて、今この世に生きていることを楽しめばいいと思います。

人と会い話をすることで、悩みも不安も天に投げてることになるのです。

そして私は今もこれからも、生きていることを存分に楽しみます。



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