知識自慢のマウント取りと〈レクチャー〉は違う
いきなり強烈なタイトルでごめんなさいね。でも、こうでもしないと、貴方方、全然注目してくれないでしょう(笑)
今回は、これについて語ります。
やんやんは、仕事の都合上、よく講義とかセミナーとか、講座とかいったものをするのだけど、単にそれらを行うだけではなく、こういったものの企画やら、計画やらも作ったりしてるんだよね。
「講義や講座の企画や計画」とかいうと、全くしたことない人たちにとっては、難しく感じるかもしれないけれど、実は、‟ある視点”を押さえて、数をこなして慣れてしまえば、そんなに難しくない。なんなら、今日から、これを読んだ貴方も作れるよ。
それでは、その‟ある視点”とは、何か。
それは、
「貴方がその講座で、話を聴いた人に、最終的に何を知ってもらいたいのか、何ができるようになってもらいたいか」
この視点に限る。
人によっては、このことを、「おみやげ(プレゼント)は何か」という言葉に置き換える人もいる。
「講義」「講座」をやる以上、それを企画したあなたは、それを受講したとたちに、「何かを知ってもらいたい」or「何かをできるようになってもらいたい」という、何らかの"想い"(情熱ともいう)があるわけで、その想いを体現化したものが、貴方の「講義」であり、あなたの「講座」であるわけだ。
貴方は、誰かを笑顔にするため、幸せにするために、貴方自身が獲得してきた知識なり、技術なりを、誰かに伝える。なぜ、貴方がそれを伝えたいのか。それは、貴方自身が、その知識を得ることや、技術を体得することが、人々にとって、幸せにつながるということを、確信しているから。
だからこそ貴方自身は、講義自体が有償のものであっても無償のものであっても共通して、受講生にその知識や技術なりを伝えようとするわけだ。
まだ、これらのことをイメージしづらい人もいるだろう。そういう人は、自分の講義を受けた人が、受け終わった後、どんな風になっているのか、どんな風になってほしいのか。具体的なイメージをしてみると良い。
指導者自身が理想をもち、その理想を実現させること。これこそが、教育の根幹だ。
その根幹は、指導者が受講者に一方的に話す講義形式であれ、質疑応答方式の自由なスタイルであれ、あるいは実際に体を使って体験させるワークショップ方式であれ、変わらない。
「講義をする」ということとは、「講座を開く」ということとは、
まさに
人を育み、その人本来のもっている能力を最大限に引き出す、もしくは引き出すためのきっかけを提供する
ことである。
だからこそ、最初に、講義を受けた人たちが、最終的にどのような姿になっているのか、どんなことができるようになっていてほしいのか、明確に思い描くことが大切だし、逆に、彼ら・彼女らの最終的な姿が、しっかりとイメージできるのならば、後はそれに沿って、効果的に、話す順番や、伝える順番を決めていけばよいだけ。
その作業は、あいているところに、ルールに従って、それぞれパーツを当てはめていくパズルのようなものだ。
つまり、最初に「ゴール」を設定しまえば、あとはその「ゴール」に至るまでのプロセスと作戦を練って行けばよい、ということ。
「講座」なんてものは、その連続体。「なってもらいたい相手のイメージ」を、更に長期的に考える。その上で、その成長(ゴール)に必要な、情報をどのように伝えていくのか。また、そのために一番効果的な口調や、話す速さはどのようにしたらよいか、といった技術が必要になってくる。
これが本当の"レクチャー"だ。
では、その一方で、ダメなレクチャーとは何か。 どうして、受講生が価値を全く感じられない、無意味なレクチャーが存在するのだろうか。
それは、教える側の自己満によるもの。「自分こんなこと知ってるんだぜ、すごいだろ!」「自分こんなことできるんだぜ、お前できないだろ?」
いわゆる、話の内容がつまらない指導者のなかには、このような態度で、仕事をしている人もかなり多くいる。
或いは、単にその講義で教えなければならないことを、仕事として割り切って、一方的に伝えるだけの人。これは、経験値や知識に乏しい新人講師によくある現象。また、カリキュラムを作る人と、そのカリキュラムに基づいて講義をする人が違う場合、カリキュラムを作る側の意図が、伝える側にうまく伝わっていないときに起こる悲劇でもある。
このような過ちに関しては、ここに偉そうに書いている自分自身も大いに反省しなければならない点ではあるけれども。
以上、このようにみてきたとき、指導する側にとって一番良い状態というのは、指導者自身が、指導する内容のカリキュラムを決定できる人、あるいは、講義や講座そのものをデザインする権限を持つ人になることだ。