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時代劇なんかを見ているとでてくる深編笠を被って、尺八を持った人物は一体何者なのか。

時代劇にも登場する、尺八を手にした怪しげな深編笠姿。隠密や刺客だったり、ときには仇を探っていたりするこの不思議な人物は「虚無僧」と呼ばれていました。

虚無僧とは、「普化(ふけ)宗」に属する有髪の僧のことを指します。

普化宗は、1254(建長6)年、宋から帰国した覚心という僧によって伝えられたとされています。中国では、唐代の普化禅師を祖とする禅宗の一派で、風狂を特徴としていました。

その後、鎌倉幕府執権・北条経時の帰依を受け、覚心の弟子・金先によって、下総小金に一月寺が創建して以来、普化宗は国内に広まっていきました。

尺八は、覚心が宋で伝授されたとも、また覚心とともに日本に来たものが、弟子に教えたとも伝えられています。虚無僧は、尺八を吹くだけではなく、変わったなりをして、物乞いをしながら各地を歩きました。

鎌倉時代末期に、吉田兼好によって書かれた『徒然草』一五〇段にも、「ぼろぼろ」として、虚無僧が登場しています。そこでは筆者は、「放逸無慚はういつむざんの有様なれども、死を輕かろくして、少なしもなづまざるかたのいさぎよく覚え(勝手放題で恥知らずの有様だが、死を軽く思って、少しも気にしないところが思い切りがよく思われて)」と評しています。

「虚無僧」という名が一般的になったのは、南北朝の頃、「虚無」と名乗る僧が現れてからだといわれます。この人はもともと、楠木正成の孫・正勝でした。正勝は生没年をはじめ、非常に謎の多い人物です。父は正成の第三子で、後に楠木氏の棟梁として南北朝方の重鎮となった楠木正儀(まさのり)。父子は南北朝の間で揺れ動く時代を生きています。

1392年、室町幕府の将軍・足利義満の斡旋により、南北朝が合一。南朝の後亀山天皇は、皇位は両統迭立という約束を信じ、神器を北朝の後小松天皇に渡しましたが、和議が成立すると、北朝方の幕府は、南朝方の将兵に様々な圧力をかけ始めました。伝承によると、このとき、南朝方であった正勝は、仏門に身を寄せてこの難を逃れようしましたが、いずれ時がきたら幕府に一矢酬いようと決意していたので、完全な出家の形をとらなかったようです。
正勝のその後については、残念ながら不明ですが、有髪のまま白の着流しに、絡子(らくす)という略式の袈裟をかけ、外に出るときは天蓋と称する深編笠を被るというスタイルは、この頃からのようです。

普化宗は、江戸時代になるとさらに盛んになります。1614(慶長19)年には、『普化宗条目』というものが定められ、さまざまな便宜・特権が認められました。これは幕府自身が虚無僧を隠密として利用したためです。例えば、虚無僧は、大名の前でも笠を取らなくてよいとし、通行手形なしでどこへでも行ける自由を認めました。これは、全国の諸大名の動静を探らせるためといわれています。さらに、二代将軍秀忠のときには直参の資格が与えられました。

一方、虚無僧たちの中には、これらの特権を楯に、横暴をきわめる者たちが現れ始めました。当時、虚無僧となれるのは、武士の身分の者だけ。おまけに、罪を犯しても、普化宗門に入れば咎を受けずに済んだし、浪人でも、本山に一定の金額を納めれば、虚無僧として認められました。

無頼の衆徒となった虚無僧たちを取り締まるため、幕府はたびたび条例を出して、 綱紀粛正に努めようとしました。ところが、普化宗の勢力は伸び続け、元禄の頃には十六の派閥を数えるほどの大きな勢力となったのです。幕府の取り締まりと宗門の対立は、こうしてずっと続いていきます。

幕末に近い1847(弘化4)年、幕府はとうとう従来の特権優遇を廃止し、普化宗を単なる臨済宗の一派として取り扱うことにしました。そして、維新後の1871(明治4)年には、普化宗は廃止となったのでした。

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