吉塚商店街にいってきたので、とりあえず感じたこと考えたことのメモ。
2020/10/9日曜日 晴天
ひょんなことから吉塚商店街に行く機会を得た。
吉塚商店街はJR吉塚駅から5分も歩けば到着する。商店街入り口にはお地蔵様があって、吉塚商店街第一ブロック通りと書かれたアーケードが見える。
インターネットで写真などを見ると、なんとも言えないアウトローな雰囲気を漂わせているが実際は落書きもなく、とても清々しいアーケードだ。
吉塚商店街は戦後の闇市がきっかけで発展した商店街出そうだ。
確かに、店舗の裏の住宅などは増改築のあとが無数にあり、時間をかけて成長してきたことが見て取れた。
また、アーケード自体もいくつか更新されたあとがあり、不要になった部分は屋根が剥がされるなどしており躯体のみが残されているところもあった。
なぜか突然現れる。壁。商店街が一種の舞台装置であるかのような、そう言う空間。意味不明。あまりに暴力的な光景に言葉を失うがトップライトのせいかやたらと美しくも見える。なんだか新喜劇のよう笑
ここで面白い風景を一枚。
どうだろうか。
僕にはとても不思議な光景に見えた。
よく考えると、住宅ができ、店舗が生まれ、それらが集まり商店街化したのちアーケードが生まれたので、真っ先に住宅や店舗からなくなって行く事はごく自然な事だ。
しかし、これでは店舗が無いのでは本来の商店街としての機能は果たせない。なのに、内からみたときは全く違和感なく商店街として機能しているように見えた。(もちろん、現在も営業を続ける店舗が多数ある上で、この部分に限っての話)
アーケードのハリボテが作りだす表と裏が、ある種フェイクの商店街のにぎわいを作り出しているようにも見えた。
継ぎ接ぎだらけのアーケードを見ると、形と空間のボリューム、境界設定の重要さを指し示しているのかもしれない。考えすぎか...
何はともあれ、「更新」をテーマに研究をする身としてとても興味深い商店街である。やはりテセウスの船的なノリと暴力的な素材、そしてブリコラージュとコミュニティ、この辺が建物や都市の空間の「更新」を考える上で需要になってくるだろう。
「部分の集合が総和を超える。」
宇宙は無限の入れ子であり、もちろん都市や建築、家具に至るまで、一種のイスラーム模様のような、フラクタルな構造を成していると今まで思ってきた。
しかし今はそれだけでないような気がする。
構造化することで部分は制約を受ける。
本来はもっと自由であるはずなのに。
この自由さにスポットライト当てたとき、もしかしたら、部分が全体を超えるような空間が生まれるかもしれない。
できれば、意図して作り出せればいいが...
デザインと形の関係を考えると到底、意図して設計することは概念上不可能なのかもしれない。サイコロを振って設計すれば別だがw
アフォーダンスと言えば良いのかなんなのか。
自分の中で意識の世界での出来事がクローズアップされる。
とりあえず世の中不思議がいっぱい。
そんなことを考えていた1日でした。 ちゃんちゃん。